Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

ブログを書くことについて

かつてmixiというSNSが大流行した。当時高校生だった僕もよく日記を書いていた。

月日は流れ、mixiを今でもやっている、という同年代の人間はあまり知らないが、僕は昔と大して変わらないような文体でこうしてブログを書いている。ブログを書いている知り合いは何人かいるようだが、僕のように、特定のお題にそって筋道立てて社説みたいな文章を書いている人は見たことがなく、詩的で叙述的な、「エッセイ」のような書き方をしている人が多い。つまり、このエントリで言えば、下記の「何故かと言うと」以降が存在しないようなブログだ。僕にはああいう書き方ができない。

何故かと言うと、僕にとって文章を公表するということは、見たこと聞いたこと感じたことを書き留めておくことではなく、「自分が何らかの事象を前にしてどのようなプロセスと視点で思考しているかを著す行為」だからだ。見たこと聞いたこと感じたことが一次的な素材であれば、それを整理し、納得の行く形で言語化し、説明する二次的な行為が、僕がブログを書き、公表する理由にほかならない。従って、僕はブログを書くにあたって、拙いながら、説得的、論理的な文章を目指している。

そういう理由で、僕がブログを書く理由は周囲の人々と重ならないことが多い。かといって上記のような一次的な素材を書き留めていないわけではなく、それはいずれ試論としてまとめられるかもしれないし、日の目を見ることがないかもしれない。

そういった素材には2パターンある。一つは十分な客観的ソースに乏しく論証が難しいもので、もう一つは、導き出された断片的な命題が極端に個人的で、世に出すまでもないものだ。前者については単なる実力不足にすぎないが、後者のような思索、僕自身の内省―例えば僕自身の人生観とそれに対する考え―を外面化するつもりはない。そういったごく個人的な目的で産み出された思考の生々しさが、論証によって固定化されてしまっては困るからだ。そういうものについては、macのメモに書いてそのままにしている。