Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

 

世の百合漫画市場も相当に賑わっているそうだが、こういったリストを見るとその理由がわかる。

簡単に言えばpixivで活動していた同人作家が商業誌に引き抜かれ始めたからである。pixivやtwitterで評価が確立されている作家を早く引き抜き土俵を移させた方が、実力ある同人作家が持ち込みをしてくるのを待つよりパフォーマンスが良いということに出版社も気づいたのだろう。

そのことについてこのエントリで論うことはしないが、上のリストを見ると、たった30程度のランキングの少なくない数がpixivで見たことのある名前で占められている。

つまり、俗に言う百合漫画の一ジャンルがpixivの文化によって形成されているわけだ。

では、いわゆるGLという既存のジャンルと、pixivにおける百合の峻別はいかようになされるか。僕はその一つに「同性愛を過剰に意識させるか」、もっと言えば「従来のGL的なカルチャーを踏襲しているか」というところにあるのではないかと思う。僕自身GLに詳しいわけではないのだが。

簡単に言えば異性愛(者)がマジョリティの社会で同性愛が立ち振る舞ってきた所作が、大部分の場合pixivの漫画ではぬけおちている。元々が女性キャラで占められた作品の二次創作である場合が多いため、同性愛自体への背徳感や葛藤がそれほどフィーチャーされない。これは創作の目的にも還元される差異かもしれない。つまりは、同性愛を書きたいか、好きな作品の二次創作を書きたいか、という違いである。

 

秋★枝さんはこうしたネット型の同人作家から商業に移行した先駆であり、優れた作家だ。いまの連載作品に「恋は光」という作品がある。

恋は光 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
 

 

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 この作家は恋愛よりも広義の意味での「好き」という感情を描くのに長けている。このシーンは登場人物が「恋とは何か」を探求し、世にある恋愛作品を手当たり次第見た時の感想だ。

これは登場人物の感想であるが、いわゆる恋愛作品の特性をよく捉えているように思う。見方を変えれば、恋愛というシチュエーションが先行するあまり、登場人物の精神の機微がそこに囚われてしまっている事態があるように思うのである。

ここで上に挙げた百合漫画の峻別に立ち戻る。要するに、同性愛にしろ異性愛にしろ、恋愛というシチュエーションを描くという目的が先行してしまうあまり、個人の感情がフィーチャーされない作品が多いのが、恋愛漫画の実情なのではないか。

それの良し悪しを判断することは難しいが、実存を重視する僕としては、個人の「好き」という感情が特定のセクシャリティによってカテゴライズされることを好ましく思うことができない。簡単にいえば、個人が個人に対して好意を寄せるのにゲイもノンケもなく、それは社会的枠組みにおいて事後的に発生し、規定してくるものに過ぎないと思うのである。

だからこそ、恋愛というシチュエーションではなくキャラクターが先行するpixiv的二次創作文化は面白く思えるし、一つのジャンルとして在って欲しいと思う今日この頃である。もちろん、異性愛であっても下記のような描写ができる漫画があるのならそれはそれで一向に構わないのではあるが。

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