Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

バカロレアに見る小論文作成術・前編

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この画像は衆議院議員日本共産党准中央委員である堀内照文氏が先日ツイッターに投稿したものである。堀内氏は子どもの文章が「画一的」なものとなることを案じていたようだが、問題の所在は文章の画一性だけにあるのだろうか。というより、画一性を問題視するのであれば、子どもの文章が画一的であることのなにが問題であるのか、画一的であるというのはどの部分においてそうであることを指すのかを今ひとつ問う必要があるだろう。

確かにテンプレートが同一のものであれば、文章のスタイルも似たようなものになる。ただし、その文章が立脚する個人の考えや体験がユニークなものであれば文章全体が画一的なものになりはしないのではないだろうか*1。文体や構成が画一的であるというのは学生の感想文が似たり寄ったりになることの本質的な原因ではないように思う。

もちろん読書感想文はそれ自体として一つのスタイルではある。しかしながら、そのスタイルは小論文やレポートといった論証を伴う文章において求められるものではないだろう。むしろ、高等教育において求められる客観的な論説や分析、書評においてはむしろ画一的な文章構成が求められるのである。このことは「レポート・論文の書き方入門」と題された本を一冊でも読めば明らかなことである。

したがって、この文章構成法がもたらす、個々人の思考のプロセスに対する影響が問題であるように感じる。具体的には、しばしば大学生が書くレポートや小論文が論証の体をなしていない事態がそれに当てはまる*2。後にこの事態に関しては例を挙げるが、大学教育で読書感想文のスタイルで書かれたレポートが濫立するのは、義務教育中に論述的な文章を書き、その構成や表現、分析について添削を受ける機会がほとんど無いことに理由があると考えられる。

 

では大学一年生や高校生が説得的な文章作成術を身につけるためにはなにをすればよいだろうか。先の「入門」も有用だろうが、実際に説得的な小論文を読み、その文章に関する分析を読み、それを真似て小論文を書いてみて添削を受けるというのが近道であるように思う。とはいえそのような実践的な本はあまり見かけない。あったとしても日本語のエッセイがお題であったり、あまり興味深いテーマを取り扱うものは少ない。

本ブログでも以前書いた覚えがあるが、フランスの大学入学資格試験であるバカロレアの受験対策本が、小論文の書き方、問題の分析の仕方の基礎を学ぶにあたって効果的である。

フランスの小論文(dissértation)は構成や文の形、作成のルールが厳密に決まっていて、受験者はその型を守ることがまずもって義務付けられる。逆に言えば序文・本文・結論を備えた三段論法に基づく論証を、適切な表現を用いた文章を書くことができれば、それだけで高評価につながるのである。例えばそのルールには以下の様なものがある。

  • 一人称は使わない
  • 「〜と思う」「〜だと感じる」といった表現を用いない
  • 「であろう」といった曖昧な表現を用いない
  • 題材となる文章を曲解しない
  • 題材となる文章を長々と引用しない
  • 決められた文章の量を守る
  • 常に客観的である
  • キーワードは定義を明確にする
  • etc

どれも論説文を作成するにあたって基本的なことばかりである。しかしバカロレアにおいてはすべての試験が論述式であるので、こういったルールを厳密に遵守しなければ評価対象にすらならない。従ってバカロレアで好成績をおさめるためには文章作成能力がまず要件となり、受験生はそのスキルを身につける必要があるのである。

フランスの参考書メーカーであるannabacなどは各年のバカロレアのテーマと模範解答、文章作成にあたってのポイントをホームページに掲載している。しかしながら当然それらはフランス語で書かれているため、日本語で読むことができない。

今回はその模範解答を引用・翻訳することで*3フランスにおける小論文作成の手順を概観することにしたい。筆者による解説・コメントは本文との混同を避けるため脚注またはインテンドしてある。

今回は「道徳la morale」に分類されるテーマを選んだため、「個人」や「主体」、「自由意志」といった哲学的概念それ自体に対する考察は少ないが、当然ながらこういった概念を問い、分析するテーマも出題される。

模範解答の本文を見る前にまずは論述にあたって挙げられているポイントを訳出する。

 

2011年度バカロレア哲学課題

テーマ:「自由は平等によって脅かされるか La liberté est-elle menacée par l'égalité ? / Is liberty threatend by Equality ?*4

 

 

 [論述のポイント]

 

1.主題の用語を定義する

→まずお題に使われている語を定義することからはじめる。このテーマ(自由は平等によって脅かされるか)においては「自由とは何か」「平等とは何か」「脅かすとはどのような事態を言うのか」がまず明示される必要がある。議論にあたっての前提を明確にし、読み手と共有しなければならないからである。ちなみに、ギリシャ・ラテン由来の語彙を多く持つフランス語においてはエティモロジー(語源)を引く場合も多々ある。

 

  •  平等(Égalité)

「平等」とはまずもって数学用語であり、等価関係、あるいは二項の置換を意味するものである。ここにおいて「平等l'égalité「同一性l'identité」は区別され得る。同等の二項は必ずしも相似ではないからである。

「平等」は同様に、各個人が同じ仕方によって見られるべきであるというところの「政治的原則principe politIque」を意味する。

「平等」「衡平(公平)l'equité」と区別される。というのも平等が第一に「各人に同じものを」であるのに大して、衡平は「それぞれに、各人の利益、必要性に応じたものを」であると言える。

法の下の平等l'égalite des droits」、すなわち万人の平等な尊厳という観念に基づく法の下の万人の平等と、「条件の平等l'égalite des conditions、すなわち手段の平等や、生活環境の平等を区別することができる。これはマルクスによる「形式的平等égalité formelle」「実質的平等égalité réelle」を思い起こさせる。

 

  •  脅かす(Manacer)

「脅威menace」とは、ある事柄にかかる「リスクrisque」のことである。すなわち、ある事象に対してそれを妨げ、侵害する可能性があると考えられるものである。脅威とは従って、常にリスクにとどまる。というのも脅威はあくまで可能性であるからである。

 

  • 自由(Liberté)

「自由」「独立indépendance」あるいは「自律autonomie」であると定義し得る。独立が各人の持つ「意志volonté」にしたがって行動する能力を意味するのに対し、自律は「個人の規範propre loi」を遵守する能力を指す 。ここで扱われる「自由」は心理学的な意味合い(いわゆる自由意志libre-arbitre)であるというよりは「政治的自由la liberté politique」である。というのも今回のテーマは、人間間の関係についての検討に立脚するものであるからである。

 →当然、フランス共和国のスローガンである「自由、平等、博愛」が念頭に置かれている。注目すべきはそうした国家の根幹にある標語が批判的考察の対象として国家試験に出題されていることである。そしてこの試験が社会科の試験ではなく、哲学の試験であるにもかかわらず、このテーマにおいては「自由」「平等」という観念が政治的、社会的枠組みの中で論じられることを求められていることも目につく。「哲学philosophie」という分野をフランスがどのように定義しているかがよく現れている。

 

2.問題点(problématique)を探し出し、構成を練り上げる

→語の定義が終わったところで、どのような問題点が考えられるかを探し出し列挙する。そのうえで本文を書く前に構成を練り上げる。

 

  • 問題点

・ここでの問題点は、自由と平等の乖離に存する。というのも一般には*5、これら二つの観念は結びついているように思われているからである。この二つに関わるものとして、1789年人権宣言の 第一条は「人間は権利において自由かつ平等に生まれ生存するLes hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits」と明言している。しかし、そうであるなら平等が自由を妨げるという事態をどのように考えればよいのだろうか。

・問題となる点はこのテーマそのものにある。というのも、そもそも「自由と平等が比較可能なものであるかどうか」あるいは「平等は自由を損なわせ得るのだろうか」という点が問題となるであろう。というのもなぜ、自由と平等を同時に考察しなければならないのであろうか。条件の平等は各個人の自由を妨げはしないのだろうか。どのようにして、生活の質においてそもそも不平等である人間の自由を「形式的で実質を伴わない自由」、「権利の自由」とは別箇のものとして考えることができるだろうか。そうであれば、自由は法によって据えられた平等の外において可能となるのだろうか。

 →いわゆる「機会の平等」「結果の平等」である。われわれは日常的に「自由で平等な」というようなフレーズを用いて自由と平等を並列で比較可能なものとして取り扱うが、実際にはある一定の場合において平等の実現は個人の自由を束縛する。さきほど平等の性質を二つに分けたが、自由と競合し、自由を拘束し得るのは「条件の平等」、つまり「結果の平等」である。

しかし、法治国家において「結果の平等」は法によって保障され、実現される。そうした平等によって自由が制限されるのであれば、自由は法の外にあるのでないか、あるいは逆に不平等が自由を実現するのではないか、という問いが生まれるのである。

「形式的自由la liberté formelle」という表現ははおそらく「積極的自由」「消極的自由」に対応するものであろう。すなわち、「消極的自由」は外部から干渉されない自由であり、「積極的自由」は自己の意思を体現する能力の自由であるが、積極的自由は確かに形式的に個人の自由を認めている一方で、個人の能力任せであるという点で自由を発現できない人間が生まれ、結果的に全員の自由をもたらすことはないというものである。したがって、ここで提示された問いは以下のように解するのが適当ではないだろうか。すなわち、結果の平等は確かに個人の自由を制限するかもしれないが、逆に各人がその能力を自由に行使できるということは、一方で各人の自由が干渉することに繋がるため、それぞれが両立することは不可能ではないか、というものである。

 

  • 構成

・最初に、次の仮説について取り扱うことができるだろう。つまり「平等は個人の希望を拘束する限りにおいて、確かに自由を脅かすものである」というものである。

・次に、不平等もまた自由、とりわけ理念的な自由を脅かすものであるというところへと移行する。最終的には、自由を脅かさない平等が自由の条件となることを示すところへと行き着くことになる。

 

 

(後編へ続く)

*1:個人的には、自我が発達しておらずユニークな体験も少ない、加えてそうした体験や考えを発現する表現方法も知らない子供の時分に感想文を書かせれば、どうしても内容は似たり寄ったりになるように思う。

*2:例えば以前僕が大学院でTAをしていたときに、自らの主観・体験から出発して文章を構成する学生が多いということを感じた。その時は学部一年生のレポートを見る機会があったのだが、発想や着眼点はともかくとして、その文章の「感想文」ぶりには驚いた。

*3:訳出にあたって、読みやすさを重視すべく意訳を多く用いている。中には明らかな誤訳もあるだろうがご容赦されたい。

*4:全文はここで閲覧可能(フランス語)

www.annabac.com

*5:ここで「一般には」と訳した原文はa prioriである。しばしば小論文に見られるフレーズであるが、哲学的な意味合いでのアプリオリよりも軽い意味合いであり、「一般には」「普通は」といったニュアンスである。