Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

LGBTに関する諸主張について

同性婚に引き続き近親婚の合法化運動もさかんに行われているらしい。

僕個人はLGBT含む性的マイノリティや恋愛の自由に関してかなりニュートラルな考えをキープしていると思っている。加えて、身近にいる人がしょうもない差別主義を振りかざしているさまを見ることもほぼまったくないまま四半世紀を生きてきた。そのため、年代を問わず、前時代的でティピカルな差別と戦う構図のフィクションにはどうも違和感を感じざるを得ない。例えば知人が女装趣味をカミングアウトしてきたとして、その人を心の底から気持ち悪いと感じて自分のフィールドから排除したりいじめの対象にしたりしようと考えるだろうか。僕はそう感じないし、多くの現代人にとってそのような感覚がポピュラーなのではないだろうか(ちなみに関心の具合で言えば、その人の趣味が女装であることなど、その人が左利きかどうかくらい関心がない。僕自身が左利きなので、これはつまり、良くも悪くも全く関心がないということになる。)。

以前も書いたとおり、ある程度の良識と内省を備えていれば、根拠に乏しい差別や偏見はそう簡単に生まれないと僕は思うし、逆に言えば、そうした偏見や差別というのは、多分に個人の環境がその人へと与える教条に拠るものだとも考える。つまり、村八分の思想が根強い地域にいれば、人を差別することに抵抗はなくなるだろうし、身近な人に差別的視点を正当化するようなドグマを植え付けられて育てば、やはり自分と違うことに過剰に反応する人となるだろう。

それはさておき、思想的に性的マイノリティに対しては限りなくニュートラルである一方で、僕はあらゆる恋愛のあり方を法制度の面から平等にすべきであるかどうかについて、結構懐疑的だ。もちろん、法制度が個人の偏見を助長してきたという歴史もあるだろうし、僕もそこから逃れていたかはわからない。そのため、法制度の変革が民衆の意識を変えていく可能性については否定しない。

しかしながら、あらゆる平等の状況が個人を幸福にするという論理に対して、あまり賛同することはできない。例えばペットを飼えないマンションでどうしてもペットを飼いたい、という場面を想定しよう。そのためにはマンションのルールを変える必要がある、人間もペットも同じ生命だ、ともに生活できないのは差別ではないか、、、という論理で声の大きい人の意見が周囲の生活を変革してしまう可能性もある。すなわち、平等を実現するために他の側面で不平等が強調される可能性、というのが懸念すべき一点である。

もう一つは、前回のエントリでも書いたが、どのような状況にあっても不平等は存在するし、それと折り合いを付けなければならないことに変わりはない、という点だ。どういう状況を「幸福」と定義するかは難しい問題だが、少なくとも何らかの神話にもとづいて幸福を定義した場合、そこに到達しない状況はおしなべて不幸だという結論が導かれることになる。典型的な例が「結婚」をゴールとする考え方だ。

今日、テレビを見ていたら「結婚できない男前芸能人」という特集をやっていた。金子賢という俳優が筋トレのために女性との生活を放棄しているさまが再現VTRで描かれており、それに対する女性芸能人の非難の声にはすさまじいものがあった。

なかでも印象に残った言葉が「でも結婚しないっておかしくないですか?」といった趣旨の発言だった。おそらく金子賢は結婚に対してこだわりがないのだろう、鳩が豆鉄砲を食ったような顔をしていた。

結婚の自由、恋愛の自由が叫ばれる一方で、結婚しない自由、恋愛しない自由に関する議論というのは寡聞にして知らない。未だに「結婚しないことはおかしい」という考え方は根強いように思う。異性愛者だろうとなんらかの原因で結婚できない、あるいはしない人は大勢いるが、結婚することを前提にしてしまうと、それらの原因たる所与、思想は隠蔽されてしまう。先の芸能人のように、自らのライフスタイルを他人にあわせる気がない人にとって、結婚を受けいれなければならない人生のゴールに据えることは得策ではないだろう。例えばLGBTの結婚が完全に自由化されたとして、その状況では結婚しないLGBTは異端扱いされるのだろうか。現在の性的マジョリティがLGBTに対して抱く嫌悪感は、根拠なき教条によって後天的に生み出された産物かもしれないが、そうではないかもしれない(僕は人の嗜好や性癖はそう簡単に変えられるものではないと思っている)。それをLGBTを理解するようにせしめる力の行使もまた、かつての諸差別と同じ轍を踏みかねない危険性を孕んでいることに注意しなければならない。

きのう何食べた?(10) (モーニング KC)

きのう何食べた?(10) (モーニング KC)

 

 よしながふみがどれだけ現実のLGBTについて知悉しているのかは知らないが、彼女の描く人物は自らに与えられた状況を飲み込み、そのなかでどのように立ち振る舞うことが「自分の」幸福につながるかを考えぬいている。同性愛者はすべからくカムアウトし、SNSのアイコンを虹色にすべし、というわけではないだろうと僕も思う。

つまるところ僕は、幸福と神話が一致しているような運動に対して、全般的に信を置くことができないでいる、という次第だ。