Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

M.フーコー『これはパイプではない』

これはパイプではない

これはパイプではない

 

■序*1  

本書は20世紀を代表する現代哲学者であるミシェル・フーコーによる、現代画家ルネ・マグリットの論考である。といっても、この論考はマグリットの思想を正確に描写することを目的としたものではない。あくまでマグリットの絵を試金石とした、フーコー自身の思索書である。

ルネ・マグリットシュルレアリスムの代表的作家であるが、彼の作品の一つに「イメージの裏切りLa Trahison des images」という絵がある。

丁寧に描かれたパイプと、その下にある一行の文章。そこには「これはパイプではないCeci n'est pas une pipe.」と記されている。一見した限り、そこにあるのはただの矛盾にすぎない。

しかし、フーコーは、そこに込められた意味は単なる矛盾に回収されるものではないと言う。本書は、マグリットの生涯に渡り複数枚描かれたこの絵画のうち、二つのヴァージョンに着目し、この謎めいた絵が西欧絵画史に永く横たわる伝統を解体しかねない可能性を秘めていることを、独創的な観点から「解読」するものである。

1966年に発表されたフーコーの代表作『言葉と物 les mots et les choses』では、ラス・メニーナス論において類似・相似の概念が展開された。本書においてもその概念は大きく打ち出されており、それ故に本書は『言葉と物』をはじめとするフーコーの思想への導入書としても有効であろう。

 

■西欧絵画の伝統 

フーコーによれば、十五世紀から二十世紀に至るまでの西洋絵画史は、二つの原理によって支配されてきた。

第一の原理は、「造形表象 représentation platique」と「言語表象 représentation linguistique」の分離、すなわち、「類似 ressemblance」による表象と「差異 defférence」を通じた指示の分離である。ソシュールによれば、言語と対象は恣意的に結びついているにすぎず、ある語は、他の語と異なっているという点においてのみ、言語ゲームにおいて意味を有する。すなわち、言語と表象は明確に区別される概念であり、その意味では西欧絵画において描かれてきたものは全て言語ではなく表象であると言える。故に、絵画作品の「中に」言語が描かれることはあり得ず、それは常に画架の「外(表題、額縁、人物名)に」表記されるに過ぎなかった。

しかしながら、フーコーによれば、この第一の原理は20世紀の画家であるクレーの絵画において破棄されている。すなわち、クレーの絵画において、画を構成する諸要素は、造形表象であり、同時に言語表象でもあると言うのである。これを端的に表す例としては「矢印」がある。クレーの絵画における大きな特徴である矢印であるが、一方では原初的な記号-象形文字のような-として読むことができ、他方、図像としても読まれ得る。これは類似による表象=再現と、文字記号による対象指示の交叉であり、この点においてクレーの絵画は第一の原理を逸脱する。

また、第二の原理は、類似の事実と、そこに表象=再現の繋がりがあることを断言=肯定することの間に等価性があるという原理である。例えば、ある絵画における図像がパイプを表す時、そこにはその図像がパイプに似ているという事実が見出される。この時、この事実は必然的に、「これはパイプである」という言表を含有しているのである。すなわち、類似と肯定=断言は分離することができない。パイプと類似しながら、その絵自体が「これはパイプではない」という事態を表すことも、観覧者がその絵から「これはパイプではない」という言表を引き出すことも不可能である。これが第二の原理として、西欧絵画史の流れにおいて古くから存在したのである。

しかし、やはりこの原理もある画家の登場によって断絶するとフーコーは言う。この第二の原理の断絶は、カンディンスキーの絵画において見られる。彼の絵画における抽象的な線や色彩は、いかなる対象にも類似していない。しかしながら、それは何かしらの対象と対等な関係を持つと、カンディンスキーは主張したのである。

 

 

■解体されたカリグラム 

前置きが長くなったが、二人の偉大な画家によって破棄されたこれら二つの原理は、マグリットの絵画である「これはパイプではない Ceci n'est pas une pipe」においていっぺんに覆されたと、本書においてフーコーは主張するのである。フーコーはそのことを、この画をカリグラム的に読解することで示す。

カリグラムは、文章そのものを線として用いて一つの絵を描く技法であり、古くからヨーロッパに存在した詩形である。その目的は内容と形式の一致であり、文章で対象を指示すると同時に、その線で図像を描くことによって、カリグラムは二重に、同義反復的に対象を捉えるのである。すなわち、カリグラムにおいて造形表象と言語表象は一致する

一方、フーコーは「イメージの裏切り」を、解体されたカリグラムであると主張する。すなわち、この絵はもともと、一つのカリグラムであり、それが分解されてできたものであると言うのである。その根拠の一つは文字の位置である。下方にある文字は、上方にあるパイプの図像と同じペンによって、同じ画架の中に描かれている。すなわち、この文字もまた、画へと帰属しており、見方によっては、この文字もまた、文字ではなく絵なのである。

もう一つの根拠はこの文の逆説性である。カリグラムは確かに、造形表象と言語表象の融合である。しかし、言語表象である文、カリグラムにおいて造形表象の線たる文章を「読む」とき、私たちの意識はカリグラムが示す可視的形態を志向してはいない。すなわち、カリグラムですら、言語表象と造形表象は同時に為され得ないのである。読む時は見えず、見るときは読めない。いわば、両者は互いを排除する関係にある。したがって、カリグラムにおける「それはパイプである」という文は、それが読まれる瞬間においては絵として受け取られない。すなわち、「それはパイプではない」のである。故に、カリグラムにおいて、文は断言=肯定を行うことができないのである。「イメージの裏切り」における「これはパイプではないCeci n'est pas une pipe.」という文章は、カリグラムの性質を表していることの証左と言える。

フーコーは続いて、この画における文章「これはパイプではない」の指示代名詞ceciに注目する。これこそが、同じ画の中に分離して並置された図像と文章を結ぶ絆であるというのだ。 ceciという代名詞はどれを指しているのか、ここでは様々に捉え得る。上方に位置するパイプの図像を指示している場合、「これ(パイプの絵)」はune pipeという「文字」ではないと読むことができる。一方、下方に位置する文章を指示すると仮定した場合、下方の「文章」は、上方の「絵」と同じではないと解釈しうる。

だが、フーコーはここにおいても、カリグラムの痕跡を探り当てる。すなわち、ceciを、上方の図像、下方の文章という要素によって構成されたこの絵全体と仮定した場合である。その時、une pipeが指すものは、「共通の場 lieu commun」、すなわち、絵とは別に存在するはずの、実物の「パイプ」である。上方の図像と下方の文章が繋がりを持つのは、それらが指示する「パイプ」が存在するからである。しかし、両者に共通の指示対象があるということ(ceci)を、マグリットの画は自ら否定(n'est pas une pipe)する。すなわちカリグラムが二重に捉えていたその指示対象、共通の場は、ここにおいて消え去ってしまったのである。

「これはパイプではない」の最後のヴァージョンは「共通の場」の消滅を表すものとして理解しうる。

この画において、事態は明白である。すなわち、画架に描かれたパイプの画を、その下方に描かれた文章が説明する、という状況がまず措定される。つまり、画架にパイプを描き、「これはパイプだ」と書く。書いた人間は誰かに説明をしているのであろう。あるいは「これはパイプではない」は書き間違いだったのかもしれない。ここでは、先ほど示したceciの解釈は有効になり、両者を結ぶ共通の場が現れている。

しかし、その画架の上方には無座標的なパイプが出現している。そのパイプそのものを前にして、「それはパイプではない」ということはもはや不可能であり、他方、パイプの画はそれ自体パイプそのものではないという事態が、否が応にも突きつけられているのである。

以上のことからこの画が、カリグラムを作る、すなわち造形表象と言語表象の融合を作るという操作をされた後、その痕跡を残さずに巧妙に解体されたものとして読み得ることがわかる。この特質によってこの画は、西欧絵画を長らく支配した二つの原理を覆すことに成功していると言えるのである。

また、マグリットは第二の原理を、その等価性を断ち切ることで放逐する。すなわち、カンディンスキーが類似なくして肯定=断言を行ったのに対し、マグリットは絵画における類似を保持しつつ、肯定=断言を排除するのである。

 

類似、相似、肯定 

マグリットは「類似 ressemblance」から「相似 similitude」を切り離した上で、後者を前者に対立させる。類似においては、必ずオリジナルである「母型 patron」が存在する。すなわち、何かに類似するということは、「母型の照合基準 référence」を前提とするのである。どういうことか。類似においては、何かオリジナルが先にあり、それに似ている何かが他に存在するという従属関係があるのである。

一方、相似には起源-模倣のような序列関係が存在しない。僅かな差異を通じて相似は展開する。故に、類似は「再現=表象 représentation」に役立ち、相似は反復に役立つといえる。この相似の関係が画の中で展開されることによって、画の外部に対する類似の関係、すなわち母型への照合という関係は崩される危険性を孕む。なぜならある画の中のパーツを同時に類似と相似の両面から解釈することは不可能だからである。

相似の類似に対する優位性の例として、フーコーマグリットの「デカルコマニー」という絵を挙げる。

この画の持つ要素の両義性は、特定の要素を主権化し、オリジナルにせしめる類似の関係を消滅させる。ここから、類似とは私たちが恣意的に諸要素を結びつけることによって生まれることが明らかとなるのである。マグリットは言う。

類似しているということは思考だけの持ち前です。思考はそれが見、聞き、あるいは識るものであることによって類似するのであり、世界がそれに差し出すところのものにそれはなるのです(79-80頁)

この構造から「これはパイプではない」においても、類似の消滅を推し量ることができる。「それはパイプではない」という言明は、上方のパイプの画がさらに画架の上にあるパイプそのものと類似ではない、それは相似しているにすぎないと言い得る。同時に、画架の上にあるパイプの形をしたものが、本物のパイプではないとも言い得るのである。すなわち、この画において、何かが何かを表象するという関係は、「これはパイプではない」という言明によって抹消され得るのである。

「これはパイプではない」という文に関しても、事態は同様である。「これceci」がこの文章自体を指すと仮定すれば、この文章の形はパイプそのものと全く類似の関係を持ち得ないのである。言い換えれば、この文章を描いた画は、その文章にした相似していないのである。すなわち、この画において、言葉の指示する能力、画の図示する能力といったものはことごとく問いに付される。

こうしたものはどれもパイプではなく、文を模倣する文、パイプの画を模倣するパイプの画、パイプ(それ自体は画ではないようなパイプに似せて描かれた)の模造であるところのパイプ(画ではないものとして描かれた)なのだ(85頁)

以上のことから、古典絵画の持つ二つの原理、すなわち、言語表象と造形表象の文理、そして類似と肯定=断言との等価性が、マグリットによって巧妙に取り払われたことが確認できる。マグリットは言語表象と造形表象を混ぜあわせ、そして言語的要素をしきりに排除していた絵画の中に潜んでいた断言=肯定的言説を、大胆にも文字記号を挿入することで排除する。そして、類似なき純粋な相似と、肯定的ならざる言表とを戯れさせることに成功したのである。

*1:二年前に別のブログで書いたエントリだが、未だにちょくちょくレスポンスがあるので、こちらでも掲載しようと思う。若干加筆修正をしたが、内容に変わりはない。他にも以前書いたエントリに関しては折を見てこちらで再掲載する。