Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

デモと教条

今年は戦後70年*1だが、戦争の語り部が年々減少しているというニュースをちらほら見かけた。確かに僕自身、小学生の頃を思い出しても戦争の語り部の話を聞いたことはなかったはずだが、終戦を成人後に迎えた人なら、今や若くても95歳、当時であっても80歳前後なので、当然といえば当然である。僕の祖母は今年で確か85歳だったが、戦争のことはよく覚えていないらしい。いずれにせよ、戦争を体験した人がいなくなる事態を避ける事は不可能であるはずだが、どうやら戦争の語り部が減少していることは相当に由々しき事態であるらしい。戦争の語り部がいなくなれば、戦争への恐怖心が薄れ同じ誤ちを繰り返すようになる、ということだろうか。

だが僕はふと疑問に思う。果たして戦争の惨禍を訴え続けることは本当に必要だろうか。この疑問の根底には「教育において、何某かの規範を教条的に(「〜すべし」という論調で)説く行為は許容されるのか」という命題が存在する。例えば「戦争は良くない行為だ」という非常に反証の難しい命題の下で生徒の感情に訴えかけるような授業を展開すると「なぜ戦争は良くない行為か」「戦争に至るまでにどのような経緯があったか」「どこがどう良くないことなのか」といったその他の事情が無批判のままになってしまうのではないだろうか。

その行いの何が問題だというのか、戦争は問答無用で悪なのだから問題ないではないか、と思われるかもしれない。問題はその命題が戦争を扱っているかどうかではなく、その教育が特権化された教条によって行われていることそのものに存する。戦争の例を見ると、現状、戦争の語り部にしても、どの学校の図書室にも必ず置いてある『はだしのゲン』にしても、その存在の前提には「反戦」のイデオロギーがある。その主張が正しいかどうかはさておき、それは必ず「〜すべし」という論調を伴っている。僕は、『はだしのゲン』の最も恐ろしい描写は原爆が落ちた瞬間以降ではなく、原爆が落ちる直前にあると思っている。なぜならここに描かれている戦争への熱狂とそれによる差別が、前述の教条の危険性を端的に表しているように思えるからだ。全体主義の中で日本の敗戦を疑うものを徹底的に排除するイデオロギーの蔓延。反論の許されないイデオロギーによる侵食という構造は、戦争の賛成・反対を問わず共通しているものである。そしてそれは当時の日本人のメンタリティの大部分を侵食していたはずなのに、どういうわけか、戦争の語り部の戦争体験で、戦争に加担し、異なる思想を持つものを迫害したことを告白する例を僕は知らない。それはなぜだろうか。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

 

以前僕はこの本を読んで、次のような短い感想を書いた。

 

Amazonでものすごい評価だったので(そして安かったので)購入。非常にモヤモヤとした読後感を覚えたが、あとがきでその理由が明らかになる。作者自身、マージナルな境遇からこの題材を描いているからだ。つまり、原爆を題材にしながら、「原爆」から必死に目を背けようともがいている。原爆に対してどのような態度を取ればいいのか分からない。
どうしても原爆を題材にすると、例の漫画のように勧善懲悪、白黒はっきりしたイデオロギー的な作風になりやすい。そういう意味でこの漫画はかなりユニークだ。
つまり、残酷で、無責任で、毒を帯びた漫画であって、これを「感動」の一言で享受し、消費してしまうのは多分ダメだ。
僕は少なくとも、全く感動していないし、この作品は原爆の恐ろしさやらを伝える作品でもないと思った。そして、感動さえ呼び起こせば良い作品か、そうとも思えない。
そういう意味で、Amazonのレビューには共感できない。

 

いかに優れたイデオロギーがそこにあっても、それを享受するのは人間という一箇の身体に過ぎない。当然ながら、記憶は時が経つにつれて風化し、その空白にはよりシンプルな論理が埋め込まれてゆく。自らの体験を生々しく語りつづけることすら、日々変化する肉体にとっては容易な行いではないのである*2。戦争の語り部も例外ではないと僕は思っている。つまり、戦争の語り部が語るものは認識によるフィルターにだけ歪められたものではないということである。個人の思想や価値観は、いとも簡単に時代ごとのイデオロギーによって無意識のうちに侵食を受ける。そうである以上、戦争賛美は戦時中という特殊な状況の産物に過ぎないという論法は当てはまらないように思える。

もちろん、戦争体験を語り継ぐことに全面的に反対するわけではない。自らの生が無数の死を乗り越えて生きていることについて、子どもに想像を巡らせしめるために、こうした論調は非常に訴求力を持つことは理解している。まだ判断能力が未成熟の子どもに統計的事実を伝えてもなんの効果もないかもしれないが、『はだしのゲン』や恐ろしい体験談を聞かせれば、戦争の恐ろしさ、理不尽さだけは植え付けられるだろう。

加えて、日本は唯一の被爆国という特殊な地位にいる。それゆえに、日本人として戦争の惨禍を伝承することは、外交的には重要な課題といえるかもしれない。しかしながら「二度と同じ過ちを繰り返してはならない」という目的の下でなされる教育として、これら多分に主観的な史料を用いることは適切だろうか。もっと言えば、それだけで十分な教育であると言えるのだろうか。結論を言うと、大衆に広く行われる道徳教育は特権化されたイデオロギーと不可分の関係にあるが、その構造はイデオロギーの内容自体に左右されないのである。戦時下であればそれは愛国精神であり、敗戦後であればそれは反戦である、というだけの差異にすぎない。すると、こうした構造を有する道徳教育は、「戦争の惨禍を繰り返してはならない」という目標を達成するに十分な効力を有するものであるか、という疑問が浮かび上がる。なぜ道徳教育がこの構造と不可分の関係にあるのか、それは、当たり前のことながら、道徳教育の目標が、特定の価値観を効率よく多くの人間に根付かせることにあるからだ。そのためには、特定のイデオロギーは無批判のままにとどまり続けなければならない。では、こうした目標を達成するために、戦争の語り部や『はだしのゲン』がなぜ効果的か。このことをより明確にすべく、別の例を参照する。

昨今、安全保障法案に対するデモがさかんに行われている。国民の政治的関心が高まり、諸々の問題を孕む政策に対して積極的に異議申立てがなされる状況は望ましいことかもしれない。僕自身も現行の政策に対して問題意識がないからデモに参加するつもりがないわけではまったくない。しかしながら、一国民が行いうる範囲の政治的コミットメントは基本的には自らの効用に結びつかないと考えているため、デモに参加することに積極的な意義を見出すことができない、というのが僕のスタンスである。ただし、こうした異議申立てを行うことにこそ意義を見出している人も少なからず存在するだろう。そうした動機についてこのエントリで言及するつもりはない。

一方で、国民一般が同様の理由からデモに参加しているとは考えにくい。僕のデモに対する意思決定が正しいかはわからないが、自らの行動が明確な目標達成に繋がるであろうことを冷徹に検討した後にデモに参加している人がそれほど多いかと言われれば疑問に思う。そのため、ここでは国民一般に対象を敷衍した上で、彼らがデモに参加する動機について考えたい。

デモの映像を見ていて第一に耳にする声は「戦争反対」である。この主張を掘り下げると「自分や子供が強制的に戦争に参加しなければならない状況に反対」という下部構造が浮かび上がる。すなわち、デモにおける主張の多くは「死、あるいは死に準ずる体験への恐怖」に根拠を置くものである。ではなぜこうした「恐怖」がデモの原動力となっているか。『ヤバい経済学』にわかりやすい説明があるため引用する。

条件とかニュアンスとか、そういうものの臭いがすることを言う専門家の話なんて誰も聞いちゃくれないからだ。自分が編み上げた平凡な説を通年に押し上げるなんて錬金術をやろうと思ったら、専門家はあつかましくやらなければいけない。それには一般の人たちの感情に訴えるのが一番だ。感情は筋の通った議論の天敵だからである。感情に関して言えば、そのうちの一つ―恐れ―は他よりとくに強力だ。凶悪殺人鬼。イラク大量破壊兵器BSE牛海綿状脳症)。幼児の突然死。専門家はまずそういう怖い話で私たちを震え上がらせる。意地の悪い叔父さんがまだ小さな子にとても怖い話をするみたいに。そうしておいてアドバイスをするから、とても聞かずにはいられない。 *3

 

デモの思想的主導者はさかんにこの恐怖を扇動しているが、この構造は上の戦争の語り部の例と似通っている。むしろ、幼少期に与えられた「トラウマ的な教条」が、本件において潜在的な恐怖を促進する役割を果たしている可能性は否定出来ない。というのも、国民の圧倒的多数が戦争を体験していない以上、その恐怖を正確に認識している人もいようがないにとかかわらず、戦争への嫌悪は往々にして、まるで戦争を経験してきたかのような口調を伴っているからである。

それはさておき、とりあえず戦争への危機へと人々を駆り立てる原動力を「(死への)恐怖」へと限定する。そこで「『死、あるいは死に準ずる体験』を避けるためにデモに参加する、という選択肢は妥当か」という問いをたてたい。

結論から言うと、僕は妥当だと思わない。まず「個人にとっての自らの、あるいは親族の『死、あるいは死に準ずる体験』は戦争体験だけに還元されるか」という疑問が浮かぶ。簡単にいえば人間が恐怖し、死ぬ理由は戦争だけではないということだ。一秒後も生きている保証は神によってしか担保されないそうだが、あまりにも世界は死への危険で満ち溢れている。

どういうわけか、人は自らコントロール可能なものよりも、コントロール不可能なものに恐怖感を抱くらしい。例えば車の運転に根拠なき自信を持つ人は、飛行機に乗ることに同じく根拠なき恐怖を抱く。天災を過剰に恐れる人が、どういうわけか生活習慣病に無頓着であったりする。

もちろん、戦争の恐怖はその比ではない、最も恐ろしい地獄だ、という意見もあるかもしれない。しかし、それを踏まえたとしても、デモに参加する人々が、自らの身体に対するリスクに対して十分に敏感であるようには思えない。にもかかわらず、戦争への反対がデモのシュプレヒコールの圧倒多数を占めているという状況は、イデオロギーと恐怖心を巧みに利用して作られたものであるように思うのである。そうすると、僕としてはこうした状況を手放しで喜ぶわけにはいかない。前述の通り、その構造はイデオロギーには全く関係なく、そこからはみ出たものを簡単に排除し得る危険性を孕んでいるからである。そうである以上、いまデモに参加している人が、数年後に全く異なる立場に与している可能性は否定できないし、勝ち馬に乗り続けることができなかった人は差別の対象になるかもしれない。同様のことは以前LGBTに関するエントリで書いた。

そもそも、もしどうしても戦争を避けなければならない、何を置いても現政権を引きずりおろさなければならないというのであれば、もっと単純かつ合理的なやり方があるように思えるが、誰もそれをやらないのは何故だろうと思う次第である。

時計仕掛けのりんご (手塚治虫漫画全集)

時計仕掛けのりんご (手塚治虫漫画全集)

 

 

*1:本当は終戦記念日にアップするはずだったエントリだが、まとまらなかったので放置していた。

*2:就活に関する一連のエントリで、僕は経験を物語化することの重要性について語った。しかし、人は物語を生きているわけではないので、なんとなくやった行いを隙間なく物語で補強してしまうと、あたかも自分がその時々で、特定の論理に基づいて価値判断を行ったかのように錯覚するようになる。例えば、経済学部に落ちたから法学部に入った、楽なゼミだと聞いたから憲法のゼミに入ったという事実を「高校時代に読んだ日本国憲法の歴史を読んで、この国の根幹を支える規範について関心を持った。将来は外交関係の職につきたいと考えていたため、まずは自国のことについて探求したいと思い法学部を志望した」という後付けの物語で脚色する。そうした捏造を繰り返しているうちに、なんだか自分は当時からそのような考えで法学部に入りたかったのだと思い込むようになる。といった具合である。僕はこの事態が非常に危険だと思っている。

*3:スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、望月衛訳『ヤバい経済学』東洋経済新報社、2006年、187頁。

価値観と幸福

別に日経ビジネスオンラインの記事をうのみにするつもりはないが、一方で未だ将来の配偶者を年収で足切りする人は多いようだ。僕としては、そういう人がどのように恋人の年収を聞き出すのかが気になるところである。

もちろん、常識と年収がトレードオフの関係にあるとは言わない。しかしながら、人間に与えられた能力は大差なく、他方で時間は客観的には平等に与えられている。この前提を踏まえれば、常軌を逸脱した給与という事実は一つのシグナルとして立ち現れてくるように思える。

それはさておき、配偶者に対する要求が多いこと自体について、僕は悪いこととは思わない。問題は、その要求が正当であるかどうかだ。

自らの資質や能力を市場において数値化するとすれば、その額は当然、そのマーケットにおける需給バランスで決定される外生変数だ。個人はその額でもって将来の配偶者を判断するわけだが、判断する者は同時に判断されることを恐れ続けなければならない。個人の選好に拠るところも当然あるだろうが、年収やステータス、ルックスのような可視化されやすい判断基準が跋扈している現状において、情報の完全性というのはそれなりに担保されている。以前と比べて家族形態も多様化している。ゆえに、玉の輿に乗るのは可能かもしれないが、乗り続けるというのはなかなか難しい、精神をすり減らすゲームであるように思う。

最終的に個人の幸福はその人本人にしかわからないことだと僕は考えている。しかるに、幸福に近づく術があるとするなら、それは、自分にとって(実現可能な)幸福は何であるかを考えぬき、それを得るために必要なリソースを確保し、戦略に従って行動することに尽きる。こうした記事などを目の当たりにする度に、このプロセスにおいて、戦略以外がおろそかになっている人が多いように感じてならない。すなわち、幸福を得るために必要なリソースを確保するという部分である。重要なのは確保すべく行う努力であって、生得的な部分ではない。なぜならそれは審美眼と多分に関わっているからだ。

「現代は消費社会だ」という化石のような言葉を使ってしまうのは心苦しいが、なぜ消費という行為はそもそも問題なのか。それは、消費する主体はあくまで自分であって、自分はその身体性から逃れることができないからである。デカルトは「考える私」を唯一疑い得ない対象としたがゆえに、「私」の条件から「生命」を剥奪してしまったが、果たしてそれは、世界に実際に生存する一箇の生命という前提を過剰なまでに押し付けられた実存としての現代人にとって受けいれるべき命題であろうか。僕はそうは思わない。

消費という行動を定義するとすれば、それは成長なきアクティビティであると考えられる。例えばオタクが漫然と深夜アニメを見続けたからといって、そこに用いられている作画理論や背景知識には決して到達できないように、反省的に自己と向き合わなければ消費する主体に変化はない。あるのは欲望の充足だけである。

欲望の充足であるという点で、確かに消費は幸福を得る行為かもしれない。しかし、いくら気持ちいいからといって痒い背中を掻き続けることが幸福なのかどうかは問いに付す必要があるように思える。

では消費社会とはなにか。消費社会は私たちを成長から疎外することによって、審美眼を奪い、さらなる消費へと私たちの欲望をドライブさせる構造自体を指す。

 例えば、登山家が登山によって得られる幸福は、どれだけ労を割いて説明したとしても一般人には完全には理解できない。なぜならそれは登山を専門に行う人間の身体に対して、登山という行為が幸福をもたらすからである。この例で言えば、消費社会が消費者に流布するものは登山の楽しさではなく、「登山は楽しい」というイメージである。実際に登山を楽しいと思えるようになるまでに成長する過程における労苦は捨象されている。

ではなぜその構造が問題か。一定のアクティビティにおいて審美眼から疎外されるということは、そのアクティビティにおいて自分がどのように幸福を得ることができるか、という判断基準を持つことから疎外されるということである。ブランド品の例を考えれば明らかなことだろう。ブランド品を所有することにおいて、もはや個人の選好は存在しないのである。そこにあるのは、ブランド品を所有できる幸福か、できない不幸かのどちらかである。

同様のことが最初の例にも当てはめることができる。往々にして人は配偶者に対し、過剰とも言えるステータスを求める。その欲求のドライブの源泉がどこにあるかと言えば、審美眼の不在に端を発するものであると僕は結論付ける。かつて次のような言葉があった。

「生まれついての金持ちなら貧乏を憎まない。何故なら貧乏人は彼らのステータスを飾り立てるものであるし、彼らの好奇の対象だからだ。貧乏を憎むものは今現在貧乏である人間か、あるいは貧乏から必死で這い出してきたもののいずれかだ」

今現在この言葉は正当だろうか。誰しもが口をそろえて「年収〜万円以下は嫌だ」と言う。彼らはその年収以下で不幸を感じてきた人間であろうか。僕がこの言説に対して疑問に思う。一つは上記の通り、それを得るに見合うだけの資質や能力の陶冶に励んできたか、という点からだ。これに関しては、生まれ持った資質もあるだろうし、それにどれだけの需要が生まれるかはその市場次第なので深く追求はしない。問題はもう一方の点だ。すなわちその数値と幸福の関係性について考えた上での言説かどうか、という点である。

上記の言説で言えば、それは「年収〜万円以下は貧乏である」という、どこからかもたらされた仮想のイメージによる欲望と恐怖の扇動*1によって突き動かされて出てきたものであるように思えてならない。もちろん大は小を兼ねるという論法は年収にも言えることかもしれないが、上述の通り、人間一人あたりに割り振られたリソースには限りがあるわけで、年収という目に自らが持つチップの全てを賭けることは得策ではないように思う。もちろん、他のステータス一般にもこのことは言えることだ。

例えば経済成長が停滞して久しい欧州では、低所得ながらも効用を増大させる生活モデルが発達している。フランスなら安価で美味しいワインとチーズが普及しているし、飲み会ならフェットという、日本で言う宅飲みのようなものが主流だ。休日には公園が老若男女で賑わっている。低所得ながら、残業が厳しく取り締まられているために、お金を使わずに余暇を過ごす習慣が広がっているわけだ*2

一方で、日本における世間一般の幸福が消費と別のベクトルを向いていない以上、この国でその枠組みから抜けだして独り自らの幸福と向き合うことに専心することは同様に神経をすり減らすことかもしれない。日本においてそれが実践できていると思う人は、往々にしてそのアクティビティと真剣に向き合うことで反省的に自己を高め、そうした世間的な価値観を転倒することに成功した人ばかりだ。

僕はそのアクティビティとして、音楽と思索を選択した。それに少なくないリソースを費やしてきた今までの取り組みから得た手応えから、今後もし、大した年収も稼げず、独身で生涯を終えるといった、世間でいうところの「負け組」状態に陥ったとしても、おそらく音楽と書物があれば、それなりに自己の幸福につながる生き方ができるという朧げな確信を抱きつつある。それは、僕には所与の資質や能力が乏しく従来的な価値観によって得られる幸福もたかがしれているということ、そして、渇望的な消費行動によって得るものの先に、あまり幸福な人生のヴィジョンが見えてこなかったということから取った選択によるものである。

 

*1:この図式については、好例となる事態が今、現実社会で起こっているため、後日別エントリで書く

*2:もちろん、そのようなヨーロッパ人の生活がどのような問題に立脚しているかは別箇に検討する必要があるだろう。国内で面で言えば、例えば貧困層や移民の問題である。

文系院生のための就活マニュアル:結論・補遺編

数回にわたって長々と書いてきた就活体験記も本稿が最終回となります。このエントリでは結論および今までのエントリの補遺を書きます。 

 

結論

 

まず、何度か言及してきたことですが、就活マニュアルと題し今まで書いてきたことの中で一番重要なポイントを述べます。

それは、「この就活マニュアル(あるいは他の就活マニュアル)に沿って就活を行ったからといって、希望通りの内定を得られるかといえば、まったくそうではない」ということです。逆もまた真なりで、この就活マニュアル通りのことを全くしなくても内定をとれる人はいます

企業にとって新卒採用の目的は「自社の売上に貢献できる(資質のある)人材を採用すること」に尽きます。身も蓋もない言い方をすれば、いくら就活のために数ヶ月〜一年間準備を重ねたからといって、それまでの人生において積み重ねてきた差が簡単に覆るわけでもないですし、生得的な素質はなおさらです。学歴や成績、賞罰のようなわかりやすいものはもちろんのこと、同じ大学で四年間過ごしたとしても、そこに至るプロセスは千差万別ですし、大学生活においても、日々を無為に過ごしてきた人もいれば、研鑽を重ねてきた人もいるでしょう。また、努力を重ねていてもなかなか外面に反映されない人もいるでしょうし、ボーっとしてるだけでも「なんとなく仕事がデキそうなオーラ」*1がにじみ出ている人もいます。なんのロジックもなくても話し方に妙な説得力のある人間だって結構います。面接官もただの人間ですので、面接の場においてこうした素質は論理を軽々と飛び越えることがままあります。例えば営業であれば、多少ロジカルな人間よりも、溢れる魅力を兼ね備えた人間を雇用したほうが売上につながるでしょう。それどころか、ロジックを積み重ねて説得的な意見を述べたとして「新卒のくせに生意気だ」と思われればそれまでです*2

それ故に、もしあなたが誰もが目を引く能力・資質を有していないのであれば、入念に準備を重ね、倦むことなくトライアンドエラーを繰り返し、少しでも自身の市場価値を高く見せなければならないということを冒頭で強調したわけですが、逆に小手先のテクニックや方法論に走りすぎて根拠のない過信に陥ってしまうことも避けなければならないのです。

とはいえ、そういった人間に経歴や学歴、資格等、他の面であなたは優っているかもしれません。就活で評価されるポイントを全て兼ね備えている人間は限られています。大多数の就活生が、均せばある程度同等のレベルで戦っています。また、放っておいてもアピールになるような資質はそれほど多くありません。であるからこそ、いかに優れた商品であろうとプレゼンテーションが駄目なら売上が伸びないように、誰であっても自分自身をPRするための最低限の準備は必要だと私は考えます。

以上のことから、就活においてあなたが「成功」を収めるためには次のことを意識する必要があります。

 

・自分という人間の就活市場における価値を見誤らない

 あなたの立ち位置(性格・能力・資質・学歴・経歴・資格、ビジネスへの適正等)を考慮した上で、自分にはどれだけの市場価値があるのかをしっかり把握する必要があります。例えば、誰も知らないような大学出身でありながら、誰もが羨む企業に入社しようとするなら学歴以外の面で相当のアドバンテージが必要だと言うことは、だれでも直感的にわかることかと思います。逆に言えば、あなたが有名大学(の院)卒だからといって、ビジネスの場で使えそうな素質を全く持っていなければ、残念ながら周囲と同じような企業には入れないかもしれません。当たり前ですが、学歴と、社会において付加価値を生み出す能力は比例関係にありません。個人単位で見ればなおさらです。

大学(院)までの受験が学力というペーパーテストの基準のみで評価されてきたのに対し、就職活動はあなたという人間が、様々な視点から「自社のビジネスに貢献できる人材か」という基準に基づいて総合的であると同時に狭窄な視野で判断されます。中にはそういった視点からは評価されないあなたの良さもあるでしょうが、面接官の目につかなければ就活において意味をなしません。周囲が有名企業に内定を取るなかで自分だけが「世間的な成功」を収めない場合なんて山のようにあります。

加えて、これは特に学部生時代の経験に基づく体感ですが、就活における決定的な時期は意外と短いです*3

よって、エントリーを行うことのできる企業数を鑑みても*4自分がどのような職業に就きたいかをよく見極め、自分の立ち位置と照らしあわせて勝率が高いコマに賭ける必要があります。履歴書的なプロフィールのみで就職偏差値なるものを照合していき企業を決定するというやり方は、ともすれば門前払いの挙句に持ち駒がなくなるという事態にも繋がりかねません*5

そのためには、客観的な意見を収集しておく必要があるでしょう。就職カウンセラーなどの中には少しでも世間体の良い企業にエントリーすべきだという人もいるでしょうが、話半分に聞いていたほうが無難です。就活が始まった後は説明会に参加し、働いている人や志望者をよくよく観察することも重要です*6

 

 

・伸びしろを見極める

上で述べたとおり、3月1日時点での自分の資質と入社できる企業の「レベル」がかなりの割合で相関関係にあることは事実です。しかし、それが就職活動の全てに当てはまるわけではありません。時には驚くほど些細なことで合否が決定されることもありますし、何より就活を通じて人は成長していくからです。就活は大体半年程度続くものですが、可能な限りトライアンドエラーを繰り返し、自らを是正していく作業が欠かせません。

しかし、何度か申し上げている通り、就活において評価されるポイントはまちまちで、そうしたポイントすら両義的なものです。よって、改変と改善の違いを区別し、どれだけ自分を改変すべきか、どれだけ自分を改善できるをはっきりさせることが必要だと私は考えています。さもなくば、より良くしようと思ってやったことが、実は無駄だった、それどころか改悪ですらあった、という事態になりかねません。

では、「改変」と「改善」をどう区別していくか。生得的な、あるいは20数年間生きてきて身についた自分の性質というのは自分に強く根ざしているものですので、基本的に変えることができません。例えば無口な人が就活を機に急におしゃべりになる、というのは難しい話です。しかしながら、営業職志望であればある程度口が立つように見せなければならない機会もあると思いますし、面接というたかだか30分間のやりとりくらいなら、人生最高の明るさを発揮して理想の自分を演じきれるかもしれません。こういった行いを「改変」と呼びます。つまり改変とは、自分の根幹にある性質をある程度変えていく作業のことを指します。

就活マニュアルではよく「短所を長所としてアピールせよ」という文句を目にします。そのアドバイスを受けいれるかはさておき、人間の性質には様々な面や捉え方があること自体は事実です。

ただし、私自身は「改変」の作業はほとんど行いませんでした。というのも、自分を偽ることがそもそも苦手であるというのがまず一点。そして自分の性質を変えることで、長所が削がれてしまう危険性があったため、改変によるメリットが少なかったからです。

前述のとおり、私は覇気のない人間で、口数も少ないながら営業職を志望していました。この選択を貫くべきか、面接ではもっと明るく振る舞うべきか就職カウンセラーに相談したところ、皆が口をそろえて「キャラを変える必要はない」と言いました。それは「落ち着いて論理的に会話が出来る人間だと感じさせる。暗い印象を受けるわけでもないから、営業職でも一定の需要はある。逆に無理して会話を盛り上げようとして論理性や会話のキャッチボールを損ねてしまう方が危険」という根拠に基づくものでした。

ちなみに、この作業は一人で行わないことを強く推奨します。自分が入りたい業界、企業、職種と自らの性質を見極める作業は、基本的に独力では難しい作業です。できるだけ複数人のアドヴァイスを集めた上で、最終的な判断を行うことをおすすめします。

一方、「改善」は長所を伸ばし、短所を潰すことになります。話術を磨き、論理的に思考する訓練をする、字を丁寧に書く、といったことは、やればやるだけ向上するものであるという点で誰にでも共通しているものです。とはいえ、例えば字が下手だから毎日3時間書写をするというように、時間の無駄遣いは禁物です。就活における目標に対し、有限なリソースをいかに割り振れるか、その見極めはどちらにも共通して重要なことです。

 

 

院生の学歴・成績について

 

多くの場合、院進学は同じ大学への進学か、若しくはMARCHから東大の院に行くような「学歴ロンダリング」に当てはまるのではないでしょうか。あくまで偏差値的な基準で言えば、私の進路選択はいわゆる「逆ロンダ」にあたりますし、そうした現象自体に私は特段なにも言うことはありません。ただし、私の実感としては、就活においては学部時代の学歴をかなり参照されているという感触を覚えました。もちろん私は学部卒や平均的な院生と比べて特徴的な状況にあるということもあって、典型的な学歴フィルターというものを肌で感じる機会はほとんどありませんでした。しかし面接官の口ぶりからは「@@大学を卒業している。そして大学院は別のところに進学したようだ」というイメージを持たれているように感じました。もちろんすべての場合に当てはまるかはわかりませんが、院進学において偏差値の高い大学の大学院に入学したからといって、必ずしも学歴上有利になるとは限らないかもしれません。

成績についても同様です。多くの場合、大学院の成績は学部の成績と比べて上がるのではないかと思います。しかし、就活の際は学部の成績も提出しなければならないので、大学院の成績だけで「成績優秀」をアピールできない場合も多いです。

 

 

エントリー数について

 

これは判断の難しいところではあります。というのも、企業との相性というのは実際に面接を受けてみないとわからない部分もあります*7。なんだかんだで文系院生ということで門前払いする企業もまだまだ存在しますので、ESを出してみないことには面接に進めるかわからない部分があります。しかしながら、闇雲に受けていたのでは企業研究も疎かになりますし、身が持ちません。

私自身は最初のうちはとにかくESを出し、ある程度ESの通り具合が分かった時点で「2週間に5〜6社程度まで」と決めて面接に臨みました。他方で、毎週数社ペースでESを提出し、落ちた分だけ補完するという形を取りました。そうすることで持ち駒を切らすことなく安定して就活を行うことができますし、受験企業を最低限に絞ることでESや面接の負担も軽くなります。幸いなことに、今年度は企業によって選考プロセスが比較的バラバラでしたので、このような戦略を取ることができました。

面接を辞退した企業もありますが、それ以上に持ち駒が切れるという事態は精神的なストレスが強いので、それをコントロールするという意図もありました。

 

 

相談相手について

 

就職活動において他者からの目線で自分を捉える作業は非常に重要です。特に、自分を理解している人々による長所・短所、印象、適正と、初対面の相手が自分に対して感じる第一印象を区別して把握する作業は必須です。

前者なら、友人、先輩・後輩や、院生であれば助教など、頼れる相手をどんどん頼りましょう。 様々な視点から長所・短所をピックアップする必要があります。そしてそのようなコメントからは、自分では気がつかないポイントが出てきます。

後者の場合、就活カウンセラーやハローワークの人間を活用することならだれでもできます。会話をしてみた感想、文章の読みやすさやそこから伝わってくる内容を忌憚なく言ってくれる人*8がベストです。特に院生であれば、身の回りの人々は自分の研究に理解がある人が多いと思います。ですので、就活課の人々や、あるいは自分の親など、自分の研究に全く理解がない人に模擬面接をしてもらうと良いでしょう。

ちなみに、就職友達もいて困ることはないかもしれませんが、基本的には不要だと思います。というより、何故必要なのか私には検討がつきませんし、就職中に知り合った人の中で、連絡先を交換した人はゼロでした。

 

 

公務員試験について

公務員試験に関しては、私自身長大な時間を費やした経験もあるので、いずれ別のエントリにまとめたいと思います。ですので、ここでは公務員試験を受験するにあたっての比較衡量の話にとどめます。

果たして、文系院生が就職口確保のために公務員試験を受験する意味はあるのでしょうか。答えは人によりますが、もし文系院生は民間で就職できそうにないから、保険の意味で公務員試験を受けるという考えに基づく選択であるなら、熟考をおすすめします。

というのも、当ブログで解説したとおり、文系院生(それも最も就職に不利と考えられがちな哲学系専攻のM3でさえ)でも民間企業への就職は可能であり、一方で、特に人文系の院生が公務員試験に費やすであろうリソースは民間企業への就活よりも大きくなるからです。

もし中学受験、国立大学受験の経験がなく、人文系の学部・院に在籍しているのであれば、公務員試験に割かなければならない勉強量は相当量にのぼります*9。逆に言えば、経済系・法学系の難関国立大学に在籍している人であれば、それほど苦もなく難関公務員試験をパスすることも可能です(下記参考サイトを参照のこと)。さらに、3年次進級時点で単位をとり終わっているような真面目な受験生に比べて、修士課程1年次はやることが山積みです。そのため、他の受験者に比べて不利な環境で臨むことになることは基本的には避けられません。

また、現在は公務員試験であれど面接が重視されますので、民間企業と大差ないレベルの面接試験も多く存在します。

加えて、公務員試験はリスクヘッジが難しい選択でもあります。民間企業は受け続けることが可能ですが、公務員試験は併願先が限られます。そのためコケたら来年の再受験を待たなければなりませんし、ギリギリのタイミングで民間企業に鞍替えすることも難しいです。私のように大幅に出遅れてしまい、エントリーを逃すことになるかもしれません。

これらの点から、公務員試験が民間企業就職に比べて楽な道であるとは言いづらいというのが結論です。もしもどうしても保険をかけたいのであれば、学部卒の時点で国家総合職に合格し、院に進学するというのが最も合理的かなと思います。特に経済系、法学系であれば不可能な選択肢ではないでしょう。

 

 

終わりに

 

長くなりましたが、ここで就活マニュアルは一度締めたいと思います。お付き合いいただき誠にありがとうございました。この就活マニュアルが就活生の役に立てたなら、あるいはこれから院進学を考えている学生の参考になれたなら幸いです。

また何か思いついたら加筆修正を行うかもしれません。「文系院生のための〜」と銘打っておきながら、あまり院生ならではの解説ができなかったことが心残りですので、なにか思い出したら書こうかなと思います。

向こう一ヶ月程度は修正作業で文章が安定しないかと思いますがご容赦ください。一ヶ月以降の加筆修正はその旨追記します。

 

 

 

 

 

付録:参考になるサイト・ならないサイト

 

・民間企業の就活 

kanedoの就活記事まとめ

The Dosanko Nikki from Tokyo

私は就活においてこの二つの記事をひたすら読んでいました。正直、私の就活マニュアルはこの二つの記事の焼き直しのようなものです*10

 

 

・公務員試験

○感謝のプログラミング10000時間

○Tech mind

国家総合職合格者のブログです。参考になる部分は多くありますが、情報処理能力に長け、取捨選択が的確に行える人でなければ同じスケジュールでの合格は困難に思います。

 

 

・その他就活サイト

 

×みんしゅう

これを見る暇があったら他のことに時間を割きましょう。せいぜいESの締め切りくらいしか役立つ情報はないので、むしろ精神衛生上封印したほうが懸命です。

×2ちゃんねる・就職偏差値

これも必要ありません。信憑性に乏しいというのが大きな理由です。業界研究を行ってみればわかることですが、同じモノを扱っている会社でも、そのビジネスの仕方は千差万別です。当たり前ですが、ひとつの企業をどのように評価するかは就職活動を行っているあなたの目線にのみ依存しているわけで、偏差値という基準で比較できるものではありません。もし業績や年収で比較したいのであれば四季報や業界地図で十分です。

 

 

*1:私は内定を頂いた企業の面接で「君はオーラがないね」とはっきり言われました。

*2:そのため、就活生全員がある程度意識すべきポイントとして、私は「素直さ」を提示しています。

*3:サボるとすぐにおいていかれるので、基本的に就活には人生最大の生真面目さ(授業を遅刻したりサボったりしがちな人は要注意)でもって臨んだほうがよいです。

*4:このエントリを書いている9月現在、企業から毎日二次募集のメールが届きますが、多くの場合これは敗者復活戦を意味しません。

*5:但し、これは「高望み」という事態だけに当てはまるものではありません。例えばさしたるウリのない中小企業に東大院卒が「第一志望」だと言って面接を受けに来たら「何故ウチなんかに入りたいんだ?」と訝しむでしょう。

*6:私はこうした「合う/合わない」といった感覚的な部分を、客観的な統計情報と同等か、それ以上に信じるべきだと思います。何故なら、その企業の社風や働いている人の性質が自分と合致しているかどうかは自分にしか分からない上に非常に重要だからです。但し、自分はコミュニケーションを取ることが苦手だから営業は無理、商社は体育会系っぽいから合わない、というようなイメージに基づく視野の狭め方は一方で危険です。あらゆる判断にはその人のフィルターが介在します。人は自分と向き合うときすらそのフィルターを通さざるを得ません。自分の判断に自信を持つためには、日頃から自分自身と向き合い、そうした判断の偏りの方向性をわきまえておく必要があるように思います。

*7:とはいえ、なるべくギャップを減らすために説明会での印象を重要視したほうがよいというのは前述のとおりです。

*8:批判をしてくれる人と、ただの非難に留まる人を混同すべきではありません。後者は精神衛生上非常に有害なので、相談が辛くなるような相手はそうそうにチェンジしましょう。

*9:ここでは国家総合職や外務専門職といった難関とされる試験を念頭に置いていますが、地方自治体や国2であっても科目の多さから見て勉強の総量に大差ないのではないかと思います。ちなみに専門科目を廃止する自治体は増加していますが、その分だけ面接に比重が置かれているため、そういう自治体を受けると結局民間企業と同じ選考ステップを踏む羽目になります

*10:それでも長大なエントリを書いたのには、私自身就活という半年の活動を通じて思うところがあり、それについてまとまった論考を書きたいと思ったという理由と、同じ方法論を基に行うことでも細かい差異は生まれ、時にはその差異が読者にとっては重要なヒントにつながると思ったという理由があります。

文系院生のための就活マニュアル:GD・面接編

 

院生であれば、日頃の議論や発表を通じて、持論を筋道立てて話すことには慣れているのではないかと思います。その能力は就活で重要であるにもかかわらず、それがきちんとできる学生は少ないので、是非それを立脚点として論を展開するように心がけてください。

一方で、就活におけるコミュニケーションの場は、そうした発表や議論の場とは根本的に異なることに注意する必要があります。以下、順をおって説明します。

 

 

グループワーク

 

正直、グループワークは私もそれほど得意ではありません。漠然としていますが、個々の役割と議論の流れを意識し、適切な発言ができれば及第点なのではないでしょうか。

では具体的に私はどのような戦略をとっていたか。上記の院生としての長所を活かすべく、基本的に「議論を一歩外から俯瞰し、見落とされた点を指摘、要所要所で論点を整理、議論の流れを誘導・修正する」という役割を担うことを念頭にGDに臨んでいました(できていたかはさておき)。実際、ファシリテーターとしての役割が高評価につながったというフィードバックを頂くことが多かったですが、それでもしばしば不合格だったことには以下の様な理由が考えられます。

一つは、一人ひとりが全体の状況と議論の流れを意識していればこの役割はさして必要ない、ということです。こうなると、よほど鋭い発言をしない限りは無難な印象に落ち着いてしまうでしょう。実際、レベルの高いディスカッションでは必要な提案を行うことができないこともありました。

もう一つは、これはおそらく私の性格上の短所でもあるのですが、一度煮詰められた論に対してクリティカルな指摘をしがちというところです。GDは限られた時間の中(概ね30〜40分)で妥当性の高い立論を行うことが至上命題となります。議論も佳境に入りはじめたところで今まで煮詰められた枠組みを壊しかねないような反証を行うと最終的な結論に至らない事態に陥ります。GDはアカデミズムの中で論文を書くこととはスパンも厳密性も次元が異なるため、蓋然性のレベルで物事を捉える訓練、決められた時間の中で協力して妥当な推論を行う訓練をサークルなり課外活動なりで積んでおくことが望ましいでしょう。

 

 

面接

 

面接で聞かれる内容は、ES編で述べた二つの問いに集約されると言っても過言ではありません*1。一方で、面接官が見ているのはこの問いへの回答だけでは決してありません。もしそうであるとするなら、選考はESだけで十分でしょう。

では面接官は何を見ているか。こちらも漠然としていますが「一緒に働きたい人間であるか」が、見極めにおける重要なポイントです。当然これは面接官や企業によって異なる基準でもありますので、自分ではどうにもならない部分があります。

しかし、そういった資質を見極めてもらうために、最低限抑えて置かなければならない前提は存在します。よって、ここでは面接を受けるにあたって誰もが意識しておくべきポイントに絞って話をします。

まず、繰り返しになりますが、「一緒に働きたい人間であるか」を念頭においてコミュニケーションを成立させることが大前提となります。面接になると「長所をアピールしなければならない」という心理が働いて、ついつい長話をしてしまう人がいます。また、そうでなくても日頃から話が長い人もいます(私のことですが)。また、就活本の中には「面接はアピールの場だ」という論理の下、すべての発言をアピールに結びつけるようにすべしと書いているものもあります。では、「簡単に自己紹介をしてください」と言われて5分も話し続けたり、「短所を教えて下さい」と言われて長所を話したりする人と正常なコミュニケーションをとり、これから長きにわたって協力して業務を遂行できると思うでしょうか?

そういった事態を回避するためには、面接において会話のイニシアチブを握っているのはあくまで面接官であり、受験者は面接官の質問(だけ)に、簡潔に答えることがまずもって重要であることを念頭に置く必要があります。例えば自己紹介なら「名前・学校・専攻テーマ・課外活動(+α/趣味など、アイスブレイクになるような一言)」で十分です。その中に気になるところがあれば面接官が質問してきます。付言しておくと、人間が集中して人の話を聞いていられるのは長くても一分程度です。例え長所の中に気になるポイントがあったとしても、3分も話し続けられてしまうと、質問しようとしたことも忘れてしまいます。

質問に対して回答を提示したら、次に「なぜ〜なのか?」と根拠を求められることになるでしょう。「何故大学院に進学したのか」「なぜ博士に行かず就職しようと思ったのか」、「なぜ(文系院生にもかかわらず)メーカーに就職しようと思ったのか」*2といったものです。もちろん、筋道立てて説明をすることはもちろん大切ですが、こうした根拠立てにおいては、面接官が納得できるかがより重要です。メーカー志望の人が一様に「ものづくりが好きだから」と答える理由はここにあります。私自身も「うちメーカーだからものづくりに関心が無ければ困る。あなたはものづくりに関心があるのか」と聞かれた際は率直に「ギターのパーツをハンドメイドすることが趣味だから日常的にものづくりに関心を持っている」と答えていました。確かにそれが趣味であることは事実ですが、冷静に考えれば半田ごてをいじっているうちに機械や素材メーカーの営業になろうと思い立つ人間がいるわけがありません。論理的な整合性は全くありませんが、「なるほどね」と思わせる説得力はあります。逆に言えば、いかにあなたの頭のなかに整合性のあるロジックがあったとしても、相手の腑に落ちなければ無意味なのです。それどころか、特に相手が理系出身の場合、文系院生は「理解の遠く及ばない得体の知れない人間」と思われている場合が多いですので、あまりにロジックに走り過ぎるのも危険でしょう。よって、面接において「共感できる人間である」という印象を植え付けて相手のイメージを修正する作業は非常に重要です*3。そのため、まず相手が納得できるような論理を考え、それに沿うエピソードを棚卸しする、という順序を踏まえる必要があります。

後は早口にならず、可能な限り笑顔でハキハキと話すことでしょうか。こういった外面に現れている仕草はなかなか自分では意識しづらい部分があるので、面接の練習は事前にしておくとよいです。それは緊張に慣れるという利点もありますが、なによりフィードバックを通じて、外面に現れているシグナルを客観的に理解することに意義があります。録画も効果的でしょう。

 

 

*1:特にBtoBメーカーの質問はオーソドックスな物が多いです。よく2ちゃんねるで見られるような変な質問や圧迫面接は皆無でした

*2:ちなみにこの3つは文系院生でメーカーに就職するのであれば最頻出の質問です。

*3:私は「大学院に進学したのはもう少し勉強したかったからで、それを成し遂げた今、次の目標に向かって社会に出たいのです」という話しぶりで、勉強好きな人間がモラトリアムを延長したと受け取られ得るようなアピールをしました。当然デメリットもあるでしょうが、それ以上に「頭の固い人間」と取られる方が危険だと判断したためです。

文系院生のための就活マニュアル:自己分析編②

 

前回のエントリでは理念的な部分を説明しました。本エントリでは、自分のアピールポイントを個別的なエントリーシートでどのように表現していくかについて書きます。

 

エントリーシート

 

前回のエントリに書いた作業を通じてある程度自己PRの材料が揃ったら、エントリーシートの執筆にとりかかりましょう。様々な設問・字数に対してアプローチすることで文章が熟れていきますので、とにかく量を書き、どんどん添削してもらうことが望ましいと思います。

添削がなぜ必要か、これについては文章構成能力の問題ではなく、自己PRが的確に行えているか、という観点から述べています。文系院生であればある程度文章構成能力は備えていると仮定しますが、自分の研究や経験を専門外の人間に対してわかりやすく簡潔に説明できる能力はそう簡単に身につきませんし、就活というフィールドではその能力がかなり高い水準で求められることを覚悟してください*1。具体的には、理系の高校生にもわかるレベルを想定することが無難でしょう。この感覚を直観的に把握するために、同じ専攻・学部・研究科の人に限らず、様々な人に添削をお願いすることが有効になります。

大学院の研究なのだから高度なことを書かないと評価してもらえないという不安も当然あると思います。しかし、ESは面接の話の種としての側面が非常に強いものです。まずは相手に大まかな内容が伝わり、興味を持ってもらわないことには会話につながりません。

 

 

フレームワーク

 

こうした個別的な作業の一方で、就職活動における自分なりの汎用性の高い論理を構築しておく必要があります。有り体な表現を使えば「就職活動の軸」です。これはESを書く際の雛形にもなりますし、何より面接に臨むための必須作業です。というのも、ESは綿密に時間をかけて準備することが可能ですし、基本的には一問一答ですが、面接は会話ですので、様々なやりとりを通じて一貫したロジックをアピールしなければなりません。そのためには、種々の問答に耐えうるような論理を積み上げておく必要があります*2

この論理を構築するうえで非常に重要となる質問は次の2点です。

  • Q1.なぜあなたはこの会社に入りたいのか?(志望動機)
  • Q2.なぜ会社は「あなたを」採用する必要があるのか?(自己PR)

私はロジカル面接術などで紹介されているこの質問をひたすら掘り下げてゆくことで、面接本番でもある程度ブレない意見を述べるよう心がけました。順番に具体的なプロセスを見ていきます。

一問目は志望動機です。個別的な志望動機ではなく、どのような基準で会社を選んでいるかについて考えてゆくほうがベターでしょう。私は基本的に「私の就職活動の軸は〜です。貴社はその軸に合致しているため志望しました」という構成で志望動機を考えていきました。

まずは核となる回答を「〜という理由で貴社を志望します」と一言で用意します。次に、何故その志望動機を持つに至ったか、その軸は何故あなたにとって重要なのかを掘り下げていきます(例えば「グローバルな会社」を重視するなら、なぜあなたにとってグローバルという基準は重要なのか*3)。そののちに、あなたにとって重要であるその軸に沿うべく、あなたは今までどのような着眼点を持ち、どのような努力を行ってきたかを書き出します。ここで前回のエントリで行ってきた経験の棚卸しと意味付けが活きてきます。前回の作業で見極めた価値観と経験を、注意深く論理的に体系化するのがここで行う作業の目的です。こうした自問自答を繰り返してゆき、煮詰まったら最後に「ではなぜこの会社が最適なのか」という質問に回帰します。ここでもやはり、前回のエントリで紹介した綿密な企業分析の作業が活きてきます。客観的な指標を伴って効果的な論証を行うことができればベストです*4

二問目は自己PRです。こちらもまずは「私は〜という能力で貴社に貢献できます」という核となる回答を用意します。こちらに関しても同じ手順で「なぜその強みが会社で活かせるのか」、「その強みを得るに至った理由はなにか」、「本当にその能力は身についているのか」と掘り下げていきます。当然、志望職種も考慮にいれる必要があるでしょう。文系であれば、営業・人事・経理の特色を押さえた上で、自分の適性と照らしあわせ志望する職種を決定してゆけば良いと思います。

ここで文系院生が注意すべきポイントは、ポテンシャル専門的な技能を区别することです。総論編で述べた通り、文系院生は基本的に学部生と同じく、入社してからの伸びしろを大幅に重視されます。そのため、例えば自律心や課題解決能力といった、入社してからどれほど成長できる人材であるかを示す資質をアピールをしなければなりません。例えば2年間かけて一つの論文をトライアンドエラーを繰り返しながら完成に持っていく作業は、課題解決能力をアピールする要素として有用であると私は考えます。

一方で、院生である以上、学部生にはない専門的な能力(語学力など)もアピール材料になるでしょう。しかしながら、院生であることを意識しすぎるあまり、学部生に求められる能力を一切アピールしないのは危険だと私は考えます*5。とかく院生はフィルターを通して判断されがちなので、素直さや柔軟性をアピールする意味でも、前者の部分を抑えておく必要があるでしょう。 

繰り返しになりますが、どちらの問いにおいても重要なのはあなたの能力、価値観、意思決定であり、エピソードはその証明にすぎないということです。いくらユニークなエピソードを持っていても、あなたの能力を証明するものにならなければESで披露することを控えたほうがよいでしょう(極端な例ですが、頭の回転を裏付けるエピソードでダーツ大会の優勝経験を持ち出すようなことです。そんなことはするわけがないと思われるかもしれませんが、実際就活の場においてこのようなアピールはしばしば目にしました)。的確な論拠を提示することも、論理性をアピールする上で重要なポイントです。

*1:私はメーカーを志望していたため、技術職にもわかるように研究内容を伝えることに非常に腐心しました。

*2:詳しくは後述しますが、私は企業ごとにアピールする項目をガラリと変えたり、志望業界やその理由を偽ることは基本的にしませんでした。理由は単純で、嘘をつくこととアドリブが苦手だからです。完全に戦略的な就活を行うならこのような行為も必要だと思いますし、その場合、全ての企業にアプライすることのできる論理を組み上げる必要は無いと思います。

*3:抽象的な名詞(グローバル、技術力、プロフェッショナリティ、etc)を使う際は、必ずその語の定義を自分なりに明確にしておきましょう。当ブログでも時々「〜とはなにか」というタイトルでそうした試みを行っていますが、例えば「私の考えるグローバル人材とはなにか」という題材で論考を行っておくと面接での会話に厚みが生まれますし、入社試験の小論文にも有効です。

*4:ちなみに、ESは先述の通り、面接のネタになるものですので、大した字数が書けずにギリギリまで文章を捨象する場合がほとんどです。例えば今回の作業を通じて書くメモの量は膨大なものになると思いますが、その全てをESや面接で披露できるわけではありません。ですが、少なくともどこが最も伝えるべきポイントなのかは常に把握しておきましょう。当ブログのように、重要な箇所を太字にしておく習慣をつけるのも有効だと思います。

*5:私自身は就活カウンセラーに「あなたがどう考えていようが、あなたの武器でありポテンシャルの土台になっている部分は学部生時代に構築されているのだから、院生としての就活でもそこは意識しておくべきだ」と言われました。