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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

雑感

「戦場を前に――その中にいながら」

 

かつてない不安に辟易している。来月から僕は人文系の修士課程に進学する。

社会が用意した四年間の中で成熟し損なったという事実が、進学という岐路により否応無しに現前しているように思える。やることなすことに熟慮と批判を求めてくるやっかいな亡霊に取り憑かれたという診断書をもらったわけだ。もう悪霊を取り払うすべはない。聞こえの良い言い方をすれば、処世至上の価値観に阿ることはもう不可能である。

だが、思えば亡霊は守護霊であった。アプリオリに取り憑き、背後から小煩く囁きかけるルヴナン。その現れを垣間見たのが高校時代であったが、もしその時点で気付かないままであったなら、声と現世の軋轢の中で狂気に苛まれる結末が押し寄せて来ていただろう。だからこそ、この岐路の違いはもはや再び一つの道へと戻ることのない決定的な差異であったに違いない。

文学部に入り、フランス文学専攻に在籍し、四年間で課程を全うできただけでも十分に素早く動けたのであろう。しかし、新たに開かれた道を前に僕は十分に弾薬を貯めこむことができたのであろうか。

約20年間僕を形成してきた空気と袂を分かち、サヴァイヴ出来るだけの根性が僕にはあるのだろうか。

これから先の二年間を過ごした後に、僕に残るものが後悔であることは確実だ。加えて、これからの一年間は、二足のわらじを履く生活を得ることのできる最後のチャンスであろう。紐なしバンジーに身を委ねるか、遅ればせながらはしごを降りるかを真剣に検討しなければならない。

被弾すれば即ゲームオーバーの戦場と違い、僕の日常は地獄の釜ゆでのようなもので、茹でガエルの如く、真綿で首を絞められる生活になるだろう。二年後に突きつけられるものが死刑判決ではないことを願いつつ、せめて素早く動こう。空間座標としては自転車でおよそ30分の距離を行き来するだけの生活だが、ホモ・サピエンスの想像力の能う限りの跳躍を。

 

 

三週間ほど前に修論の口頭試問を終え、いよいよ社会に放り出されるまであと1ヶ月になろうとしている。その中で、かつて修士課程に入学するときに書いた記事をもう一度目の当たりにしている。

三年間――当時は二年間だと想像していたし、二年間をすぎれば確実にゲームオーバーだと信じていた――の宙吊りは象牙の塔ではなかった。僕のいた場所は限りなく学部生と同等のものだ。それが「修士課程」と名付けられていたに過ぎない。

三年前に予言したとおり、いまの僕に残っているのはいくばくかの後悔である。僕は修士課程に入るにあたって、修士課程を出た後に生存するための必要最低限を獲得することを目標に据えた。それは実存追求のための哲学的知識と思考、音楽、そして実体経済の中で生き延びるための学問であった。

三年間をつうじて、僕はおぼろげながらそれらの端っこを掴むことに成功したつもりだ。今後倦むことなく過ごすことができれば、それらを手繰り寄せていくことが出来るかもしれない。

 

危機感と焦りは微塵も消えない。それこそが、社会に出るにあたって持ちあわせることのできた最大の財産かもしれない。