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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

V.フランクル『それでも人生にイエスと言う』

フランス語で「急いでいます」はJe suis pressé(e)という。受動態なので、直訳すれば「私は急かされています」となるだろうか。

先日、V.フランクルの『それでも人生にイエスと言う』を読んだ。大学に入学するはるか昔にもらった本で、タイトルを一瞥してどうせただの自己啓発本だろうと勝手に判断して永らく放置していた。であるので、著者がアドラーフロイトに師事した精神科医であることも知らなかった。

この本を読んで少し悲しくなった。それが精神科医の宿命と言われればそれまでなのだが、この講演の中で著者はあることを強いられている。何をか。思索でも探求でも対話でもなく、「応答」をだ。どういうことか。

世間では講義録や入門書が溢れかえっている。最近はこんな本もあるらしい。

それらは確かに便利だ。難解な言説が明快な言葉で置き換えられ、理解の手助けをしてくれる。本書もフランクルの講演録をまとめたものである。ひたすら平易な言葉と解説が並ぶ。

しかしそれらの著者は、誰かへの「応答」を目的としてその本を書いていることに留意する必要があるだろう。すなわち、それらは自らの思想を自らの言葉で語った書物では理解できない人々に対して開かれたものである。いわば、哲学者は答えを求める人々に迫られて、講演やインタビューで応答をするのである。

その一方、哲学に答えを求める人間には二つのタイプがあるだろう。死に背突かれて実存への対峙を迫られる人々と、漠然とした頭の中のもやを取り払う痛快さを求める人々だ。どちらも「急いでいる」のではない。なにかに「急がされている」のだ。つまり、著者は急かされた人間に急かされている。共に悩みを深める余地はない。それは哲学者としての本懐であろうか。
例えば、倫理的な諸問題を論うことの困難はここにある。倫理的な諸問題を前にして、会議は踊るが如く問いは深まるばかりだが、その一方で現実に存在するものたちは刻一刻と迫害され、殺害され、脅かされている。彼らを救えぬ思想は無意味だと非難されることも多いだろう。フランクルもまた、救いを求める人々に、問いを中断し、答えを提示しなければならない。
ではその答えは死に切迫されている人々に響くだろうか。例えば、人生を生きる意味は何だろうかと問う人に「実存の代替不可能性だ」と答えたところで、その人はその言葉に納得して自らの生を全うするだろうか。
僕は疑問に思う。一人一人の生が取り返しのきかない唯一のものだという教えは、先進国に生きていれば誰しもがどこかで聞いたことがあるものであろう。それに比してなぜ自殺が増える一方であるのかと言われれば、誰もそのテーゼを真剣に享受していないからだとしか言いようがない。
すなわち、答えは重要ではない。重要であるのは過程であるのだ。前述の答えに則して言えば、「何故個々人の生は代替不可能であり、そのことが自分の生にとって意義を持つか」を自分で思考し、納得して享受しない限り、教えは受け取られることがない。つまり、哲学者の教えは、すなわち応答は、それすらも虚無へと消失していくのである。
心を亡くすと書いて「忙しい」と読む。何かに強迫されて心ここに在らずの人々は、果たして他者の真摯な忠告に心で応えることができるだろうか。
であるからして、死に直面することで、あるいは時代的なニヒリズムに触発されることでようやく実存的危機に瀕している人にとって、哲学はオーバードーズであって、処方箋にはなり得ないように僕は思うのだ。哲学を専攻している以上、「哲学書のおすすめはありますか」と僕もよく聞かれる。僕は悩む。哲学とは問いを深めるためのものではあるかもしれないが、問いに答えを用意「してくれる」ものではないからだ。それゆえ、そもそもの切迫した問いの無い人に哲学を勧めても、その人の貴重な時間を徒らに消費するだけで、その人の人生に資するところがあるとは思えない。
もちろん、他の用法もあるだろう。だが、例えば自論を都合よく言い表すためのレトリックが欲しいのなら、それを哲学書にもとめる必要はない。