Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

他者と共に生きる

年末だ。近頃めっきりブログを更新しなくなったが、それにはいくつかの理由がある。

一つは修士論文の執筆作業に追われてまったく暇がなくなってしまったこと。二つ目は、そうした多忙の中、なんらかの事象を前にしてじっくりと分析をしたり、あるいは黙々と思索に励んだりする機会が減ったこと。そして三つ目は、修士論文の執筆に際してなるべく妥当かつ誤りのない文章を書くべく日々を過ごしているので、ただでさえ材料の少ない中で簡単に物事に対して判断を行う気になれなかったからである。

目下、残り二週間程度となった修士論文提出に向けてさらなる追い込みがかけられているところであるが、ふと思ったことがあったので、20分ほどで文章を書こうと思いたち、こうして久々にブログを更新している。

僕は生まれてから約四半世紀、親元を離れて生活したことがない。今も実家で暮らしているため、一人暮らしというものを経験したことがない。

そんな中、歳末に際して家族が全員、数日間家を離れるという事態に直面した。僕一人で実家で暮らすというのも初めてだ。

そこで、今回の表題である「他者と共に生きる」が出てくる。とはいえ、なにも「家族と離れ一人暮らしを経験したことで孤独感を覚え、人と暮らすことの大切さを実感した」と言いたいわけではない。というのも、今回の一人暮らしは厳密には一人暮らしではないからだ。

実家には今、二匹の犬がいる。一匹の老犬と、一匹の若い犬だ。若い犬はさして手がかからないが、老犬の方は元気ながら、心臓に持病を抱え、いつ何があるか予想がつかない。最近は耳も遠く、食べた食事もすぐに忘れてしまう。

その老犬の体調を慮って、犬二匹は僕と留守番を命ぜられることになったわけだが、普段の面倒は母親が全面的に見ているため、自らの責任で犬の面倒を見るというのも、短期間とはいえ初めての事だった。いつ倒れてもおかしくないので目が離せない。家の扉も開けられず、食事も手で与えなければならない。この状況で僕がいなければ一日もつかどうかも怪しいだろう。ふと目をやれば僕の方を犬の目が眼差している。大げさに言えば、犬の命は僕が能動的な仕方で負っているわけだ。

「自分一人で生きているわけではない」とよく言われる。だが、それは他人も同様だ。他者に対して返しきれない負債を負って、「他者と共に生きる」ということはしばしば自覚されうることだが、他者の生に対して責任を負って、「他者と共に生きる」という事態はあまり顧みられない。それもそのはずで、四半世紀程度生きている中で、他者が自分に命を投げ出しているような状況はそれほど一般的ではないだろうからだ。子供を持てばそれも自覚するようになるのだろうか。

ペットを他者に含めるかどうかについては、昨今随分事情が変わってきたように思う。僕はこの老犬と人生の大半を共に過ごしているので、この老犬は他者であり隣人であるように思っている。また、今も目があった。