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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

『フラット化する世界』考

ジムに行く日は必ずエアロバイクを使って運動する。概ね一時間ほど漕ぎ続けるわけだが、なんの視覚的刺激もなしにひたすら単調な運動をするのはしんどいので、以前はiPadで動画を見ていた。見ている動画は概ねディスカバリー・チャンネルやナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーが中心だった。

僕はテレビをほとんど見ない。娯楽としての側面は完全にパソコンに敗北しているし、情報収集のツールとしてもそうだ。テレビのメディアとしての優位性は、わかりやすく受動的に視覚情報を得られること、もしくは番組単位での動画芸術を享受できることに尽きる。前者はニュース、教養番組、後者はアニメや映画、歴史的動画、撮影技術を駆使した映像が該当する。日本の民放で現代において作成されている番組の質は著しく低いので、民放のニュースや深夜アニメは見ない。同様に、日本の民放に教養番組は存在しないので、必然的にケーブルテレビを利用することになる。つまり外国の良質なドキュメンタリーや知識人向けのニュース、あるいは再放送番組をそのまま見たほうが手っ取り早いわけだ。

ただし、上に挙げたチャンネルのドキュメンタリーが押しなべて高レベルかといえばそうとも限らない。せいぜい大学一年生向けのガイダンス的な講義を動画で再現した程度の内容であるので、高度な専門性を備えた番組は少ない。そうすると、その情報自体に価値は認められない。知りたい情報があるのなら、ウィキペディアの方が少ない情報でまとめられているだろう。

よって、見るべきものといえばプラネット・アースのような決して目にすることのできない光景を集めたフィルムや、映像の世紀のような歴史的光景を映した動画に限られてしまう。

しかしこうした映像作品や、アニメや映画を見るのは体力を使うため、体力トレーニングであるエアロバイクと競合してしまう。いちいち動画をiPadにいれるのも面倒だ、というわけで、最近は平易な文体の新書を読むようにしている。

 

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前置きが非常に長くなったが、先日そのようにして読んだ本が、10年ほど前にベストセラーになった『フラット化する世界』だったのだ。

上下巻で相当な分量があるので、論点を追うことができれば後は家でゆっくり読めばよいと思っていたが、結局100頁ほどで断念してしまった。理由は単純で、最初の100頁ほどでもうすでに筆者の言いたいことが十二分に伝わってきたし、それをこれ以上読み深める必要もないだろうと思ったからだ。

本書では技術革新に伴うグローバリゼーションによってアウトソーシングなどが一般化し、その結果労働市場における参入障壁が下がり、世界中の人々の立ち位置がフラットになるという論が展開されている。筆者はこの状況に対して概ね好意的な視点を向けつつ、先進国の人間に対して、先進国の仕事は新興国に奪われるだろうから、来たるべきフラットな世界に備えよと警鐘を鳴らしている。以上が本書の大まかな主題だろう。

僕がこの主題に対して抱く疑問は次の二点である。一つは「本当に世界はフラット化しているのか」というものと、もう一つは「その警鐘は果たして誰に向けて鳴らされているのだろうか」というものだ。

主にIT革命を中心にグローバル化が進み、中国やインドの人材が労働市場に参入してきたのは紛れも無い事実だ。筆者が本書で挙げているように、コールセンターの仕事がインドにアウトソーシングされる事態も起きているのだろう。

一方で、グローバル化の言説には往々にして「中国やインドの人材は優秀でコストがかからない」という神話が存在するように思える。昨今、ようやくチャイナリスクが叫ばれるようになったが、先進国と新興国の文化障壁は経済学的な思考が想定している以上のものだと僕は常々考えてきた。いずれ移民に関しても詳しく書くつもりだが、過度なグローバル化による異文化同士の摩擦は膨大なコストとして顕在化している。要するに、文化障壁など因果関係の可視化が難しいデータは往々にして捨象されてしまう傾向にあるが、そうした「潜在的な」コストはアウトソーシングを行うには割にあわないほどに膨大なものであると僕は思うのである。

また、新興国が先進国並みの経済成長を遂げたら、そこでの生活も一変するだろう。今現在安い人件費で中国やインドの人材を雇用しているのは、単純に言えば搾取にほかならない。彼らは先進国では考えられない生活水準にいるために、先進国以下の給与を相対的に有難がって受け入れているにすぎない。

よって、彼らの技術や生活水準が向上すれば、彼らはおそらく先進国並みの給与水準を要求してくるに違いない。いくらインドの物価が安かろうと、インドに行けばiPadが1000円で買えるわけではないだろう。

以上の点から、新興国に対してアウトソーシングを行うメリットは次の場合においてのみあると言える。現時点では安く済む時限性の人材を確保するか、もしくは従業員に対して労働力の対価として賃金を支払い、消費の欲求をドライブさせ、自社製品を高く売りつけさらに搾取するという、俗にいうプア・ビジネスの構図を選択するかのどちらかだ。そしてそれらはどちらも一時的なものにすぎず、はやくもそのリスクは立ち現われ、日系企業が相次いで新興国から撤退する昨今の事態につながっている。

また、フラット化する「世界」とはなにかを考えなければならないだろう。本書の冒頭で取り上げられた人々はいずれも、上昇志向に取り憑かれた新興国のエリートたちだ。大多数の中国人、インド人は未だフラット化されずにいる。

僕がもし世界の人々の立ち位置を分類するのであれば、三層に分ける。一つは未だフラット化されていない世界の大多数の人々、一つは本書が「世界のフラット化」と呼ぶ、極めて一部分の人々(先進国の中間層、新興国のエリート)、そして最後は、そうした優秀ながらも資本を生み出すための手段にアクセスできずにいる人々を救い上げ、同じフラットな土俵に持ち上げて搾取の対象とする「資本家」である。本書はこうした経済学的な「フラット化」ができない部分について語ることができておらず、またその部分こそ、本書の主張を尽き崩しかねない「落とし穴」であるように僕は思う。

では続いて、第二の問いに移る。確かに、新興国のサラリーマンにとって、自分の仕事がアウトソーシングされ、競争に投げ込まれることは恐怖であろう。しかしながら、資本を生み出す手段が資本そのものであれ情報であれ、それにアクセスできなければ彼らはいつまでたっても中間層にとどまり続けるわけで、状況は変わらないのである。単純に言えば、本書を読んで初めて危機感を抱いているようでは、そうした被支配的な現状に気づかないほうがマシではないだろうか。なぜなら、本書で述べられている構造およびその問題点はエコノミストどころか、経済の素人であっても世界史を踏まえていればある程度想定可能なものであるからだ。僕だって、2015年になって実体経済を見てから初めて「アウトソーシングによって先進国の中間層が逼迫してないじゃないか」と批判しているわけでは全くない。本書が発売された当時の状況で本書を読んだとしても結論は変わらなかったはずだ。

そうすると、本書の役割は一体なんであろうかと思わざるを得ない。大衆の危機を一時的に煽りながら世に浸透していくのはベストセラーの常だ。ノストラダムスの大予言はまさにその典型であろう。

 アマゾンでは星5つの評価がずらりと並んでいたが、僕が本書に与える星はせいぜい3つ程度だ。もし読んだのが十年前だったとしてもそれは変わらない。