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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

ドグマと見せかけの狂気

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今も昔も変わらず、僕は理性からの逃避を嫌悪している。

僕はかなりナイーヴに知性の力を信用している方だと思う。それは多分、理詰めで考えるより効用をもたらす能力を僕がまるで持っていないことによるのだろう。つまり生まれつき記憶力が良かったり、要領が良かったり、トークが巧かったり、容姿に秀でていたり、そういう人にとって時に知性は大した武器にならない。より安易な方法で効用を得ようとするだろう。上に引用した画像はそのことについて僕が抱く嫌悪感をよく表している。人は理性の重苦しいストレスから逃れて、自分の才能を補完する(時にはそれすらも幻想だったりするが)見せかけの狂気に頼る、と僕は思っている。

哲学専攻は変人・社会不適合者の巣窟だとよく言われる。確かに変わり者は多い。だが、それ以上に、哲学専攻という世間のフィルターに甘んじて奇行に逃げる人も存在するように見える。要するに、変わり者の烙印を求めて社会不適合者と目される地位に安住するわけだ。

中には本当に常人には理解し難い嗜好を持つ人もいるだろう。すべてに関して非難するつもりはないが、それでも社会的逸脱を免れないことが多少なりともスマートなやり方であると理性的に判断できるなら、もう少しその発露については慎重になるのではないかと思っている。例えば僕がLGBTという領域について好意的に思っていないのは、その声の大きさに耳をふさぎたくなるからだ。

このような見せかけの狂気を反知性と定義し、その対比として知性を据えるのは危険だ。なぜなら、彼らを批判する「知性主義者」が知性的かについても疑わなければならないからだ。前述のとおり、生まれつき物事を考える能力が優れている人はいる。彼らの中には、より直感的な仕方で真であることにアプローチできるひともいる。「なんとなく」思い描いた結論が正しいという事態に恵まれた人は往々にしている。

では彼らは理性的な解に触れられるからと言って、理性的な判断を備えているだろうか。ソクラテス以前の哲学者クセノパネスは次のような箴言を残している。

 

確実なことを見た者は人間の誰ひとりとしていなかったし、神々について、また私の語るかぎりのすべてのことがらについて、それを知る者は、これから先も誰も居ないだろう。

なぜなら,たとえ偶々、この上なく完璧な真実をいいあてたとしても、しかし、彼自身それを知っているのではないからだ。すべての人間にとっては、ただ思惑があるのみ。(断片34)

 

ここでいう思惑とは、換言するなら「思い込みopinion」であって、要はドグマのことだろう。知性とは解ではなく、そこに至るプロセスであり、同様にドグマとは誤解ではなく独断である。果たして人はドグマから逃れることが可能であるか、それはともかくとして、獅子身中の虫を潰すこころづもりで、自ら内包するドグマに対して常に鋭敏な感性を持ち続けている者に対してしか知性的という形容を当てはめることはできない。僕が現代思想の中でもデリダフーコーのそれに惹かれる理由はここにある気がする。

しかるに、いかに優れて見える意見を持つ人がいたとしても、そこに思考のプロセスや反省の態度が見られない限り、僕はその人を知性的だと断ずることが出来ない。