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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

「哲学的な」議論とはなにか

ヴァーチャル・リアリティが発達した現在、僕らの日常生活において身体的接触を伴わないコミュニケーションに触れずにいるのはもはやありえないと言っても過言ではない。2010年以降、その流れはますます顕著になっている。iphone貧困層にも広まり、ソーシャルサービスはネットネイティブ世代の意思疎通の大きな部分を占めている。

2011年発刊の漫画『ぼくらのよあけ』は、近未来を舞台にした作品ではあるが、その下部構造にあるネットコミュニケーションはもはやすでに現実のものであるだろう。それほどまでにSNSは既に洗練され、成熟したものとなっている。

 

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 こうした加速度的な自然科学の進化が「哲学的な」議論を呼ぶものであることは今に始まったことではない。例えば先日、以下のニュースが報道された。

 

 

このポストではレイ・カーツワイルのような議論を槍玉に挙げ、「機械による支配」という『マトリックス』や『ターミネーター』のような発想から問題を提起している。しかしながら、その問題系はあくまで自然科学(あるいは社会科学)の枠組みを出ない。

いわゆる「哲学的な」問題へと拡張してみよう。そうすると例えば、「個人の意識を再現すれば、そのロボットはその人と同じ人格を有するといえるのだろうか」とか、「プログラミングによって人間の人格は再現可能なのだろうか」といった疑問が上がる。

僕としては、この2つの問いにはNoと答える。なぜなら、少なくとも一箇の生物としての人間は身体を有しており、一瞬たりともその肉体的変化から逃れることが出来ずに生きている。意識がそこに根ざしている以上、意識だけをそこから取り出すことが可能だとして、それはもはや人間的人格の条件を欠いた存在であるだろう。すなわち、人間の同一性は意識だけによって担保されるものではない、ということだ。

また、プログラミングをはじめ、モデル化とは一つのアスペクトから事物を捨象し、単純化する作業であって、その作業から複雑系へと敷衍することは方法論的にありえない。よって、独立した意識すら、こうした人間の技術では再現不可能である。

 

しかしながら、少なくともこの企画を考えた自然科学畑の人間には、意識こそが人間の必要十分条件であるというイデオロギーが念頭にある。あるいはその発想は、肉体は滅んでも魂は不滅であるという、いかにもキリスト教的な価値観に根ざすものかもしれない。いずれにせよ、企画者はそうしたイデオロギーを素朴に信奉しているか、あるいはそうしたイデオロギーに基づいた科学技術に対する需要があるという経済的な思想に基づき、こうした企画を展開するのである。例えば、映画『マトリックス』は仮想現実を生きる人間の姿を描いているが、あれも意識を肉体に先行する人間の本質であると考えるからこそ生まれた世界観である。

つまり、自然科学は客観的な分析手法を志向する学問でありながら、その発展、あるいは問題提起の段階においては、多分に研究者の時代ごとのイデオロギーに左右される学問である。岩明均はよくこの種の問題を自身の作品で提起する。例えば『七夕の国』の1シーン。

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3.11以降、こうした議論は国内で盛んに行われるようになったが、それまでは自然科学者による真剣な問題提起はあまり行われてこなかったように思える。何故なら、自然科学は特に進歩主義とともに発展してきたものであり、同時にそこに対する反省的態度の取りにくい学問領域であるからである。というのも、こうした反省的思考は、長らく「哲学的」と考えられ、人文学の閉域に捉えられてきたからだ*1。E.H.カーは著書『歴史とは何か』において、厳密な客観性を目ざす歴史学が、その根源において歴史家の主観性から逃れられず、であるからして歴史家は自らの主観性と向き合わなければならないと説いている。

では、一方でこうした「哲学的な」議論は、本当に哲学(西欧形而上学)の範疇にあるものなのだろうか。ポストモダンは急速な変遷を見せる世情に対し、しなやかに自らの思考を変化させたのだろうか。僕にはそうは思えない。

こうした議論はもはや「哲学的philosophique」ではなく、哲学や自然科学を生み出した人間の時代ごとの主観性に依拠する、いわば「学問の前にある」コンセンサスなのだ。それは自然科学においては、例えば進歩主義弁証法、そして前述のロゴス中心主義的な世界観に根ざしている。これが前述の議論をカッコ付きの「哲学的な」と呼んだ理由である。その議論は哲学からの脱却を図りつつ、西洋思想のプラットフォームに実のところ大きく依拠している。しかしながら、そうした構造を解消する役割を西洋形而上学が担えるかは疑わしい、ということだ*2フッサールは自然科学の台頭に対する危惧から、それに先行し、優越する「厳密な学としての哲学」を標榜し、現象学という学問を切り拓いた。ではフッサール以降の現象学は、自然科学の切り拓いた世界を考慮に入れた上で、包括的、学際的な議論を展開しただろうか。

結論を言えば、こういった議論は哲学的ではなく、「人間性」の問題だ。自然科学が直面する倫理的、哲学的諸問題に対して、現状、「哲学という学問」は互換性を持たないのではないだろうかという疑念がある。確かに論理的な思考は一つの視野を提供するとは思うのだが。

以前、ツイッターで「『ちょびっツ』が哲学の議論の俎上に上がる日は近い」と言ったことがある。しかし、もうこれらの議論は「哲学的」というコモンセンスによって表現されるとしても、もはや哲学という学問の枠組みでは手に負えない段階にあるのかもしれない。

 

*1:もちろん、こうした諸問題に向き合おうとする科学者がいないわけではない。天文学者である池内了は著書『科学の限界』において、科学至上主義が自然科学の立ち位置を危ぶませる危険性を指摘している。

科学の限界 (ちくま新書)

科学の限界 (ちくま新書)

 

 

*2:とはいえ、こうした疑念が正しかったとしてもなお、それが哲学の過ちであるといえるかはわからない。