Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

凝り性と肩凝り

ここ数年来、筋肉の凝りに苛まれている。背中、手足、首ときて、ついに肩凝りに至った。毎週整体に通っているが、いかんせん生活習慣病は生活態度を改めることなしに改善しないので、あまり効果は実感できない。四六時中机に向かって首を曲げていれば、筋肉が伸びて硬直するのも当然だ。とりあえずノートをイーゼルのようにたてて書いてみたり、辞書の上にノートパソコンを載せて高さを調節したりと、涙ぐましい努力を続けている。

ところで、凝り性の人は文字通り肩凝りになりやすいという話がある。要するに、スポーツなどの身体活動を除けば、何かに意識が集中しているとき、人は無意識に体を硬直させている。すると、相対的に筋肉をこわばらせている時間も長くなる。必然的に凝りを引きおこすことになる、というわけだ。

この仮説を受けいれるのであれば、精神的なコンセントレーションと肉体におけるそれは、ある程度独立しつつも相互に影響を及ぼすものなのだろうか。精神が何かに集中していると肉体もそれに応じて硬直的になり、逆に肉体が硬直を強いられていると精神も疲弊する。肩凝りの原因としてまず挙げられるのはデスクワークだが、いくら仕事に集中していなくても身体をこわばらせてパソコンに向かっていれば精神も凝り固まっていくのかもしれない。

 

ここから先は凝り性に関する余談だ。何かと悪評を受ける鉄オタだが、僕も凝り性なので、何かの拍子に鉄オタなりなんなりになってしまう可能性は大いにあると思っていた。しかしどうやら僕が鉄オタになることは多分無いなと考えを改めた。というのも、例えば構内放送を録音するときは物音が一つ入っただけで酷く苛立つだろうし、写真を撮るときは完璧なコンディションでなければ満足できない。僕はコレクター気質ではあるが、非常に完璧主義なので、どうしても完璧が見えなくなると投げ出してしまう。
子供の頃、古銭蒐集に凝った時期があったのだが、あれも状態や年代コンプリートなど、突き詰めようとすれば終りが見えなくなってしまい、その労力の割に充足感に欠けるために辞めてしまった。蒐集に対する凝り性は未だ健在だが、それはできるだけ完璧に集められるものや、得た時の充足感がなるべく高いものに限るようにしている。