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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

飢えた子供をまえに

ノーベル賞を期に、俄に「基礎科学は役に立つか」という議論がなされている。これに際して3年前に書いた記事を再掲する。

 

 

宇宙兄弟を読んだ。好みではないが面白い作品だ。その中で一つ気になるシーンがあった。

JAXAの試験を受ける主人公たちにある課題が出される。それは、ある女性コメンテーターに抗議文をだすなら何と書くかという課題だ。
彼女は言う。「宇宙開発には莫大な金がかかり、それは我々国民の税金で贖われている。その割に結果は芳しくない。そのような事に使う前に、我々には解決すべき課題が山積みなのだから、そっちに金を費やすべきではないか。」と。
この漫画で知らされるまでもなく、宇宙開発には昔からこのような批判が為されてきた。宇宙開発の規模が桁違いなだけで、問題の本質はあらゆる学問に言えるだろう。もちろん、人文科学だってしょっちゅう槍玉に挙げられる。
「 飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か。」と、かつてサルトルは投げかけた。僕はいつも思う。有効、意味、それらの定義とはなんだろうか?人間の生まれてから死ぬまでのアクティビティすべてに、本質的な差異はあるだろうか?と。
例えば、宇宙開発を辞めてその金額をアフリカの恵まれない人々に寄付したとする。そもそも、ここでいう「恵まれない」とは、我々先進国の価値基準に則ったものであり、かつての侵略者が自己の利益のために彼らの生活世界を市場化しなければ、彼らが「劣っている」と判別されることはなかったはずだ。
押しなべて発展途上国とは「西欧的社会」以外の国を指す。グローバル化と言えば聞こえは良いが、それは市場的な西欧社会による世界統一が為されたことを意味する。すなわち、発展途上国にいくら金銭的な施しを与えようと、彼らの生活水準が先進国を上回ることはないし、この侵略的構造を知らずに資本主義化が発展することにより、一層狡猾な格差が潜在することになると言えるだろう。これは既にボードリヤールが示唆したとおりであるが。
思考の多様性がここまで進展してしまった以上、万人に対して有効な言説は不可能かもしれないのだ。こうして実利的な観点から見たところでも、かたやGPSを開発し、先進国に多大な恩恵をもたらした宇宙開発と、かたや未だに碌な成果をあげないODA、果たしてどちらに「正義」はありや、と考えさせられる。合理的なことを言えば、宇宙船地球号として人間が地球に最も貢献できるエコロジーは死だ。
飢えて死ぬ子供たちを直接的に救うことは、学者のすべき仕事ではないとさえ、僕は思う。
あらゆる学問は役に立つ人には役に立ち、役に立たない人には役に立たないのだ。しかし、ただひとつ言えることは、その恩恵が宇宙開発にしろ、人文科学にしろ、確実に万人に寄与しているということである。
各々にとっての環境、生活世界というものが各人には存在し、それは驚くほどに狭い。各人にとってのそれをより良い物へと発展させることが限界なのではないか。
PS:どちらにせよ、ヒトという種のエゴイスムを無視した議論は危険だと思う。