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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

バカロレアに見る小論文作成術・後編

模範解答

 

 序論

平等によって自由が脅かされるかどうかを問うことは、平等が自由を侵害し得るかどうか、また反対に、ある不平等が自由を助長し得るかどうかを問うことである。

 一般的に、フランス共和国の標語*1に見られるように、われわれはこれら2つの観念を結びつける傾向にある。あるいは1789年人権宣言においては、人間が生まれ生存するところの身分の平等と自由がうたわれている。

しかし「平等」という言葉からは何が読み取れるだろうか。「平等l'égalité」とはまずもって数学用語であり、等価関係、あるいは二項の置換を意味するものである。「平等l'égalité」「同一性l'identité」は区別され得る。同等の二項は必ずしも相似ではないからである。「平等」は同様に、各個人が同じ仕方で見られるべきであるというところの「政治的原則principe politIque」を意味する。法の下の平等l'égalite des droits」、すなわち「万人の有する平等な尊厳」という観念に基づく、「法の下の万人の平等」と、「条件の平等l'égalite des conditions」、すなわち「手段の平等」や、「生活環境の平等」を区別することができる。

「脅威menace」とは、ある事柄にかかる「危険risque」のことである。すなわち、ある事象に対してそれを妨げ、「侵害するnuise」可能性があると考えられるものである。脅威とは従って、リスクにとどまる。というのも脅威はあくまで「可能性possible」であるからである。

「自由la liberté」「独立indépendance」あるいは「自律autonomie」であると定義し得る。独立が個人の「意志volonté」に従って行動する能力を意味するのに対し、自律は「個人の規範propre loi」に従う能力を指す 。ここで扱われる「自由」は心理学的な意味合い(自由意志libre-arbitre)であるというよりは「政治的自由la liberté politique」である。というのもこ今回のテーマは人間間の関係についての検討に立脚するものであるからである。

従って問いはパラドキシカルである。ここでは、われわれが相互に関わりあっていると思っている自由と平等の間にある相互の排除可能性について考察することが求められるのだから。しかし実際の所、自由と平等はなぜ相互に関わりあっているように思われるのだろうか。なぜわれわれは自由と平等を同時に考察しなければならないのだろうか。条件の平等が自由を侵害すると考えることは可能であろう。しかしその一方で、生活の質において不平等である人間にとっての自由をどのようにして「形式的で実質を伴わない自由」、「権利の自由」と両立する、別箇のものとして考えることができるだろうか。それでは不平等は自由を侵害しないのだろうか。あるいは自由は法の下の平等の外で可能となるのであろうか。

→構成は[序論・本論・結論]であり、本論は三段論法に沿って展開される。序論では前編で見たように、先に語の定義と用法、そしてどのような問題が主題から惹起するかを明示する。 すなわち、自分がどのような前提に基づいて、どのような議論を行うかを予め提示することが序論の役割である。フランスにおけるあらゆる小論文dissértationにおいてこの形式は厳密に守られなければならない前提である。

 

平等は自由を侵害する

A.というのも平等は隷属へと向かう情熱であるからである

『アメリカの民主政治』においてトクヴィルは自身が「平等への情熱passion de l'égalité」とよぶものの中に、民主主義のあり得る欠陥を見る。すなわち、民主主義は画一化、多数派による支配、穏やかな専制への退化に向かいうる、というものである。「平等の堕落した追求が人間の心の中に見受けられる。それは強者にも自分たちと同等のレヴェルを要求したいと弱者たちに思わせ、あるいは人間を、自由の中の不平等に隷属したうえでの平等を好むように仕向けるものである」。言い換えれば、平等は、民主的な個人が平等と安寧という2つの支配的な感情に突き動かされる場合において、自由を侵害するのである。民主社会において、法による政治的支配によって条件の平等の拡大を請け負うのは国家である。国家はそのようにして、個人の特権を退ける。そして、自由よりも平等を好む個人の信託を得て、彼らの社会的生存を囲い込む規則を絶え間なく広めるのである。

ナショナリズムの機運が吹き荒れ、民主制の機運が高まる19世紀前半の欧米において、トクヴィルはいち早く社会を実証的に分析し、そこに潜む問題を抉り出した思想家の一人である。 彼によれば、政治の民主化に伴い少数のエリートから一般大衆に政治の担い手が移行し、それによっていっときの感情が政治を左右しやすくなり、あるいは多数者の意見が常に少数者の意見を封じ込めるようになる。いわゆる「多数者による専制」である。

諸国における革命を経て生まれた平等への並外れた情熱は、平等の特権化につながる。時にはそれを越えた不平等(多数派・国家への隷属)、そしてそうした権力による自由の剥奪(多数派・国家による個人の特権の剥奪)を許容してしまうことになる。トクヴィルが予言した民主主義のこうした危険性は――その国家の成り立ちからして自由をアプリオリなものとして享受することができた、トクヴィルの時代におけるアメリカとは反対に――平等を求めるあまり自由を制限しようとする大衆、それを煽動する政治屋が台頭するアメリカ社会の現状を見るまでもなく明らかであろう。

 

B.というのも平等は強者を支配するための弱者による発明だからである。

 しかし、もし平等が自由を侵害するのであれば、それはわれわれが自然状態において不平等である限りにおいてではないだろうか。言い換えれば、法はわれわれの間に平等平等を打ち立てることによって、われわれの自由を拘束するのである。そのようにして自由と平等は矛盾するのである。プラトンの『ゴルギアス』においてカリクレスは、自由を、自らの感情と欲望を満足させる能力と定義する。諸々の法は、われわれの自由意志と対立する場合において、拘束としての側面をよく表すのである。では、なぜ法によって打ち据えられた平等を望むのか。カリクレスは、諸々の法は、不平等を不正のものとして告発すべく弱者が発明したものであり、平等の観念を助長することで、法によって強者を打ち倒すべく築きあげられたものだと言う。

 →『ゴルギアス』においてカリクレスは次のように主張する。すなわち、自然(ピュシス)においては弱肉強食こそが正義であり、強いものに虐げられる弱いものこそが不正である。ところが社会(ノモス)においては強いものが弱いものを虐げることが不正だとされている。このような事態がなぜ生じるか、なぜなら平等が善であるという観念は、弱者が強者を支配すべく作られたものであるからであるとカリクレスは主張するのである。

そうであるなら、「平等」とは捏造された不正のものであり、本来的にある自由から人を疎外するものであると考えられる。ということは平等ではない状態、すなわち不平等であることが自由の条件となるのであろうか、と議論が進展する。

 しかし、それでは自由は不平等によって保障されたものであるのだろうか。自由に生きるためには、不平等でなければならないのだろうか。

 

不平等は自由を脅かす 

A.というのも実質的平等なき自由は有名無実な自由でしかないからである

マルクスは『1857-1858年草稿』*2において、ブルジョア的民主主義、および人間のもつ諸々の権利というイデオロギーの中核にある[自由・平等]という方程式は商品と貨幣の循環の、美化された象徴であるとし、これこそがこうした民主主義の実質的な基礎であると定義づけている。普遍的な人権とみなされている平等と自由、その間にある相互性は、実際には市場における個人、すなわちこの普遍性を支える匿名的な個人を定義付けているのである。ブルジョアイデオロギーが人間の本質として付与するものはこの身分である(実際に、1789年人権宣言は第二条において、人間の譲渡不可能な最初の所有物として、自由と所有の権利を付与している)。しかし、資本に隷属させられ、自らを商品として売り渡すことを強いられた労働者の自由意志とはどこにあるのか。マルクス曰く、自由と平等は実際には搾取を隠蔽するための言葉である。というのも、現実に資本主義に自らを売り渡さなければならない労働者にとって、自由に生きる権利なんてものが何の役に立つのか。誰もが資本家になる権利を有しているとして、資本家になれない人にとってその権利に何の意味があるのか。

→実質的な自由がなければ、自由という謳い文句はかえって害にすらなりうるという主張がなされる。「支配しているのは「自由、平等、所有そし てベンサム(Freiheit, Gleiheit, Eigentum und Bentham)」だけである」という『資本論』の言葉に代表される、ある種マルクス主義の根底にある民主主義批判がここでは援用される。国王による圧政とは異なり、資本家による搾取は「平等な」個人同士による市場経済を前提としているが、実際には労働者は自由でもなければ平等でもなく、そこに至る手段から疎外されている。しかしながらその構造は「自由・平等」という理想的な観念によって丁寧に隠蔽されているのである。この例示からは、実質的な不平等が自由や平等の観念を空虚なものにしていることがわかる。

 

B.というのも平等なき自由は無力だからである

現実の不平等によって無力化された理念的な自由になんの価値があるのか。これはマルキ・ド・サドが『フランス人よ、あとひと踏ん張りだ、共和国民となるためにFrançais, encore un effort pour être républicain』において考察している問いである。そこにおいて彼は、「窃盗は貧富を平等にする効用をもっているのに、それはその目的が平等を実現する政府においても大きな悪であるのであろうか」と問い、民主的な政府が私有財産の侵害を罰してはならないことの必要性を提示する。サドは人権宣言の不条理を指摘する。なぜなら人権宣言は所有を権利であり保護されるべき自由であるとするが、この保護を活用できるのは金持ちだけであるのである。というのも貧乏人は保護されるべきなにも持たないからである。現実の不平等によって自由は「見せかけの自由une liberté illusoire」となるが、それはサドが窃盗が許容されないのかと問うことで提示した、民主制の矛盾に立脚している。

→「財産、それは窃盗であるla propriété, c'est le vol」というプルードンの言葉はあまりにも有名である。私有財産という制度が存在する以上、そうした条件の実質的(数学的、計量的)な平等を実現するためには、各人の財産を平等に分配する必要があるだろう、というのは各種社会主義の主張するところであった。ところが現実に財産の平等を実現する制度がないのに共和国は平等を謳う、それどころかその手段である窃盗を罰しさえする、これは国家の大いなる矛盾ではなかろうか、とサドは言う。不平等であることは自由をも不可能にする。というのは政府が国民に付与する自由は財産を持つものにしか行使できないからである。故に不平等もまた自由を侵害するといえる。

しかし、もし条件の不平等が自由を侵食するのであれば、自由は法の下の平等の外で可能となるのではないだろうか。

 

 平等は自由を条件付ける

A.というのも自由は独立していることではないからである

実際には、不平等の中に自由はない。これはルソーが『山からの手紙』において「独立l'indépendance」「自由la liberté」を区別する際に提示したことである。「各々が好きな様に振る舞えば、しばしば他人の気分を害し、それは自由な状態とは言えない。他人の意志に従うよりも、各人の意のままに行動することに自由は無いのである。したがって、自由は他人の意志を自分たちの意志に従わせないことに存するのである」。言い方を変えれば、自由でいることは望むことをすることではなく、それを前にしてわれわれがみな平等であるような法に従うことであるのである。

→人間社会において各人が好きな様に生きることは、他者の自由を侵害することなしに不可能である(後に続くパッセージにあるように、ルソーにおいてそれは所有の観念の出現によるものである)。故に自然的自由とは別に、社会において自由と平等を実現するためにはどのようにすればよいか、各人が自由を拘束されるところの社会の正当性はいかようにして担保されるか、というのがルソーの命題であった。そこでルソーは社会契約を自由の産物と結論付ける。確かに社会契約は各々に固有の自由である特殊意志を制限し得るが、社会契約を結び、一般意志に従うこと自体は少なくとも契約者全員の信託によるものであり、その信託は個人の自由意志に基づいてなされた判断である。しかるに、社会契約によってわれわれは、お互いの自由を制限することで、最低限の自由と平等を全員に付与することができる、といえる。

 

B.というのも法のみが自由を可能にするからである

結果的に、法を可能にするものは法と、それを前にした万人の平等なのである。ルソーが言うには、自然状態――われわれの関係が、そこにおいては諸々の法に支配されないような架空の状態である――において、人間は平等に自由であるが、それは万人が「自然法la loi naturelle」に従っているからである。自然状態の終焉を告げるのは所有という観念の出来であるが、それというのも所有の観念が不平等(より強いものが多くを所有する)と暴力を生み出すからである。したがって人間間に「平等」なるものが改めて導入される必要が生じるのであるが、それこそがまさに、諸々の法を創設する社会契約の機能なのである。

 

結論

結局、自由を脅かすどころか、平等は自由を可能にする一つの条件であると言えるのである。自由が現実の不平等によって脅かされているように思われるのであれば、このように言うことができるだろう。形式的なものであっても、平等なき自由は不可能であると。

 

 

 

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当然ながら、この模範解答に対する批判・反論は多く考えられるだろう。例えばルソーの社会契約論のみでは、とりわけ現代社会における「自由」と「平等」の競合について仔細に結論付けることは困難である。しかしながら本論考を分析する上で重要であるのは結論ではない。むしろ、どのように論を組み立て、論証するかが重要である。

本論において一人称はまず見られない(いくつかの条件法は見られるものの、それらの使用は議論の上で不用意な明言を避けるべき状況にある項目に限られており、根拠に自信がないが故に使用されているわけではない)。各パッセージでは必ず思想家の引用がなされ、論が独断的なものにならないようになっている。そのうえで、新たに生じた問いを受けて論が発展する構造がとられており、結論に至る論証プロセスに飛躍がない。したがって、決して本論は自説から出発していないのである。

これとは正反対に、前編で引用した読書感想文のルールは基本的に「自論から出発すること」を求めている。小学生の読書感想文を例に挙げるのは気が引ける部分もあるが、実際に大学生の即レポを見ても構造は変わらない。その証左として次の即レポを引用する。学生運動に関する講義に対する即レポである*3

SEALDsによる学生運動が盛り上がった時、マスコミの報道は、まず、SEALDsに対して疑いの目を持つような視点からであることに違和感があった。現在日本で行われているデモは、大体が参加していない人に迷惑をかけるものではないと、私は感じており、自分の意見を主張する人に対して、なぜ主張するのかとか、その主張は本気なのかと他人がとやかく言うのはナンセンスだと感じる。なぜなら、自分の意見を持ち、発言することは、それぞれの権利だと考えるからである。私は自分が持つ意見について、体現する場所として社会運動を選んだことはない。しかし、多くの人が自由に参加できる社会の場について、ネガティブな評価ばかり下されるべきではないと考える。

文章がすべて書き手の主観から出発している。結果として論に客観的な根拠が無い。感想としては問題ないのかもしれないが、小論文としては不合格であろう。

こうした文章作成のプロセスは当然ながら大学生の論文執筆にも影響するだろう。それはそれで問題だが、今ひとつ考えられることは、こうした小論文の作成プロセスは、実際の議論における思考プロセスにも多分に影響を与えているのではないかということである。すなわち、まず自分の主観、あるいは直感から出発し、それを補強するために例示や論拠を探すというプロセスが習慣となる危険性があるように思える。この手法は協力である。なぜなら「私は考える」という主張はいかなる論をもってしても覆せないからである。「私」が「考える」以上、それを反証することはできない。それは客観性とは異なる次元にあるからである*4

一方で、前編の冒頭で触れた画一性であるが、フランスではこうした論証プロセスがあまりに一般的に過ぎ、議論が画一的になりがちであるという懸念が存在するようだ。また、バカロレアの合格点は10点程度なので、適切な引用と客観的な議論を備えた文章を作成できる受験生はそういないだろう。例えば知識が不足していれば適切な引用ができず、主観的な議論に陥っている可能性もある。論述問題の難しいところはある程度の知識が前提となっているところであろう。

結論としては、双方の思考プロセスを兼ね備えていることが豊かな議論には必要である。少なくとも日本の教育は片方に偏っているため、個人レベルではディセルタシオンなどの思考プロセスに触れるなどして、客観的な議論を行えるよう対策する必要がある。状況に応じて双方の思考プロセスを選択できることが望ましいのではないだろうか。

*1:「自由、平等、博愛Liberté, Égalité, Fraternité」

*2:『経済学批判要綱Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie』を指す。

*3:あくまで即レポであるのであまりとやかく言うべきではないかもしれないが、少なくとも見た限り大多数の文章がこのような構成であった。この事態には義務教育時代から連綿と続く「感想文」の教育が影響しているように思えてならない

*4:個人的には、「なんとかの論負け知らず」はこの事態を指すと思っている