Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

投票について

参院選が近づいている。特に若者に対する投票の呼びかけが各識者をはじめ俄に行われるようになってきている。

その理由はさまざまだが、近頃目につく理由の一つに「生き方」というものがあった。要するに「誰に投票するかはその人の意思決定そのものであり、その人の生き方を反映する」というようなものだ。
確かにこれは投票に行くという前提でどの政党や政治家に投票を行うかという場合においてそう言えるかもしれない。
しかしながら、そもそもの「投票に行くか」という意思決定においては、この「生き方」というファクターは必ずしも重要なものとはいえないように思う。どういうことか。
政治学において、投票行動を分析するモデルとしてライカー・オードシュックモデルというものがある。これは有権者が投票するかそれとも棄権するかを、投票における利得に基づいて決定するという前提において峻別するためのモデルだ。
このモデル(R=P×B+D-C)によれば個人が投票を行うかについては以下の変数によって決定される。

  • Pは、自分の投票行動が選挙結果に影響を与える確率(possibility)についての、有権者Aによる主観的予測である。
  • Bは、有権者Aにとっての政党間(候補者間)の期待効用差(benefit)である。
  • Dは、投票に参加すること自体が長期的にはデモクラシーの体制維持に寄与するという信念の強さ(democratic value)、あるいは投票しなければならないという義務感(duty)である。
  • Cは、投票参加にかかる労力や費用(cost)である。
  • Rは、以上の独立変数によって算出される、投票参加による有権者Aの利得(reward)である。このとき、R>0であれば有権者Aは選挙に行くと考えられ、逆にR<0であれば選挙を棄権すると考えられる。

この変数のうち、P,B,Cは現行の選挙システムによって多分に影響を受け、個人の意志を超えて決定されるものであろう。つまり、一票の母数に占める割合が低く、その投票が選挙結果に与える影響が低いほど、十分な数の政党が存在せず、あるいは各政治家が掲げるマニフェストや実現に対する信頼度に差がなければないほど、投票行動にかかる費用が高いほど、有権者の棄権率は高まる。
残念ながら少なくとも日本の政治・投票システムを見るに、これらの変数が大幅なマイナスを計上するであろうことは、客観的に明らかである。そのことについてはすでに経済学者などにより問題視されていることである。要するに、合理的主体にとって投票によって得られるインセンティブがあまりにも少ないため、若者は投票を行わないというものだ。
となると、各主体を投票へと向かわせしめるファクターはなにか。2つの想定がなされうる。
一つはその主体が合理的でないという想定だ。つまり、判断力に欠けた人々は、合理的目的とは逸脱した選択を往々にして取る。確かにそれは一つの説明として有効だろう。

もう一つは、変数PBCによって計上されたマイナスをプラスへと転化するだけの政治的信念(D)である。
政治的信念とは個人の主観的判断である。例えば有権者としての義務感、民主主義的信念、政治的意思決定に伴う満足感、あるいは特定の政党が政権を握ることへの危機感などがそこに含まれる。
合成の誤謬という経済学の概念がある。個人個人が合理的な行動をした結果、マクロで見れば損失が生まれるというものである。
先の例で言えば、多くの若者は合理的(と仮定する)に判断し、投票に参加しないという選択を行う。合理的無知というやつだ。その結果、若者の意志が政治に反映されず、「ますます」高齢者びいきの政治運営がなされる、という命題は合成の誤謬を端的に表す例と言えるように見える。
各識者がさかんに若者を煽り立てる行動も、この2つの事態によって説明可能である。すなわち、若者にとってインセンティブはもはや政治的信念にしか見いだせないため、彼ら識者たちはそこに訴えかけるしかないのである。その際に持ち出される合理的説明の例が合成の誤謬なのである。
ただし、現実に起きている事態は合成の誤謬と言えるのだろうか。もっと言えば、若者の投票率とマクロ的な損失との間に因果関係はあるのだろうか。
識者たちはいう、「若者(国民)が政治に参加しなければ、政治はより一層高齢者(政治家)びいきのものとなる」。僕が気になるのは「よりいっそう」という部分である。一言で言えば、政治の参加率と民意の反映率は漸進的に変化するものなのだろうか。これは間接民主制そのものに対する疑問でもある。
二つ目の気になる点は、投票行動とは政治への参加なのだろうか、という点である。よく言われるのは「投票をしない者に政治に文句をいう資格はない」というものだ。
しかしながら、投票という一過性の、匿名的かつ集団的なアクションが、その行動一つだけで政治に参加しているということを体現するほどの重要性を持つようには、僕には思えない。政治参加の形態は何も投票に限られたものではないからだ。
結局のところ、僕は投票という行動を行ったことが一度もなければ、今後とも行うつもりはない。それはこうした理由に基づくものであるし、なにより政治に対する関心もないからだ。それはなぜか、次のような事態を想定していただきたい。

沈みかかっている船に乗っている。いまの船頭は船を沈めるかのような舵取りをしている。代わりを買って出る人たちもみな、舵取りができるように見えない。
そもそも船自体が泥船かもしれない。もしかしたら沈まないかもしれない。
そのような状況で、何万人といる乗客が多数決をとって代役を決めようと言い出している。

僕ならそこからどうやって逃げ出し、いざというとき溺れ死なずに済むかを必死で考える。いつ船から投げ出されても即座に溺れないように準備をしておく。
この態度は僕の実存に関する考え方によるものだが、そのことについては気が向いたらより詳細に書くつもりだ。

 

以前、友人が「政治はプロレスのようなものだ」といった。言い得て妙だと思う。技術発展により直接民主制が不可能ではない現代における間接民主制のメリットは、議論の単純化と政治の専門性の担保であるはずだが、現行の政治世界はパフォーマンスとレトリックに満ちており、これらの利点から疎外されている(もしかすると、この疎外こそが民主政治の本質なのかもしれない)。こうした状況下で個人の効用を見出すためには、プロレス観戦の如くその世界を楽しむことしかないのかもしれない。