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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

デモと教条

今年は戦後70年*1だが、戦争の語り部が年々減少しているというニュースをちらほら見かけた。確かに僕自身、小学生の頃を思い出しても戦争の語り部の話を聞いたことはなかったはずだが、終戦を成人後に迎えた人なら、今や若くても95歳、当時であっても80歳前後なので、当然といえば当然である。僕の祖母は今年で確か85歳だったが、戦争のことはよく覚えていないらしい。いずれにせよ、戦争を体験した人がいなくなる事態を避ける事は不可能であるはずだが、どうやら戦争の語り部が減少していることは相当に由々しき事態であるらしい。戦争の語り部がいなくなれば、戦争への恐怖心が薄れ同じ誤ちを繰り返すようになる、ということだろうか。

だが僕はふと疑問に思う。果たして戦争の惨禍を訴え続けることは本当に必要だろうか。この疑問の根底には「教育において、何某かの規範を教条的に(「〜すべし」という論調で)説く行為は許容されるのか」という命題が存在する。例えば「戦争は良くない行為だ」という非常に反証の難しい命題の下で生徒の感情に訴えかけるような授業を展開すると「なぜ戦争は良くない行為か」「戦争に至るまでにどのような経緯があったか」「どこがどう良くないことなのか」といったその他の事情が無批判のままになってしまうのではないだろうか。

その行いの何が問題だというのか、戦争は問答無用で悪なのだから問題ないではないか、と思われるかもしれない。問題はその命題が戦争を扱っているかどうかではなく、その教育が特権化された教条によって行われていることそのものに存する。戦争の例を見ると、現状、戦争の語り部にしても、どの学校の図書室にも必ず置いてある『はだしのゲン』にしても、その存在の前提には「反戦」のイデオロギーがある。その主張が正しいかどうかはさておき、それは必ず「〜すべし」という論調を伴っている。僕は、『はだしのゲン』の最も恐ろしい描写は原爆が落ちた瞬間以降ではなく、原爆が落ちる直前にあると思っている。なぜならここに描かれている戦争への熱狂とそれによる差別が、前述の教条の危険性を端的に表しているように思えるからだ。全体主義の中で日本の敗戦を疑うものを徹底的に排除するイデオロギーの蔓延。反論の許されないイデオロギーによる侵食という構造は、戦争の賛成・反対を問わず共通しているものである。そしてそれは当時の日本人のメンタリティの大部分を侵食していたはずなのに、どういうわけか、戦争の語り部の戦争体験で、戦争に加担し、異なる思想を持つものを迫害したことを告白する例を僕は知らない。それはなぜだろうか。

 

夕凪の街 桜の国 (アクションコミックス)

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以前僕はこの本を読んで、次のような短い感想を書いた。

 

Amazonでものすごい評価だったので(そして安かったので)購入。非常にモヤモヤとした読後感を覚えたが、あとがきでその理由が明らかになる。作者自身、マージナルな境遇からこの題材を描いているからだ。つまり、原爆を題材にしながら、「原爆」から必死に目を背けようともがいている。原爆に対してどのような態度を取ればいいのか分からない。
どうしても原爆を題材にすると、例の漫画のように勧善懲悪、白黒はっきりしたイデオロギー的な作風になりやすい。そういう意味でこの漫画はかなりユニークだ。
つまり、残酷で、無責任で、毒を帯びた漫画であって、これを「感動」の一言で享受し、消費してしまうのは多分ダメだ。
僕は少なくとも、全く感動していないし、この作品は原爆の恐ろしさやらを伝える作品でもないと思った。そして、感動さえ呼び起こせば良い作品か、そうとも思えない。
そういう意味で、Amazonのレビューには共感できない。

 

いかに優れたイデオロギーがそこにあっても、それを享受するのは人間という一箇の身体に過ぎない。当然ながら、記憶は時が経つにつれて風化し、その空白にはよりシンプルな論理が埋め込まれてゆく。自らの体験を生々しく語りつづけることすら、日々変化する肉体にとっては容易な行いではないのである*2。戦争の語り部も例外ではないと僕は思っている。つまり、戦争の語り部が語るものは認識によるフィルターにだけ歪められたものではないということである。個人の思想や価値観は、いとも簡単に時代ごとのイデオロギーによって無意識のうちに侵食を受ける。そうである以上、戦争賛美は戦時中という特殊な状況の産物に過ぎないという論法は当てはまらないように思える。

もちろん、戦争体験を語り継ぐことに全面的に反対するわけではない。自らの生が無数の死を乗り越えて生きていることについて、子どもに想像を巡らせしめるために、こうした論調は非常に訴求力を持つことは理解している。まだ判断能力が未成熟の子どもに統計的事実を伝えてもなんの効果もないかもしれないが、『はだしのゲン』や恐ろしい体験談を聞かせれば、戦争の恐ろしさ、理不尽さだけは植え付けられるだろう。

加えて、日本は唯一の被爆国という特殊な地位にいる。それゆえに、日本人として戦争の惨禍を伝承することは、外交的には重要な課題といえるかもしれない。しかしながら「二度と同じ過ちを繰り返してはならない」という目的の下でなされる教育として、これら多分に主観的な史料を用いることは適切だろうか。もっと言えば、それだけで十分な教育であると言えるのだろうか。結論を言うと、大衆に広く行われる道徳教育は特権化されたイデオロギーと不可分の関係にあるが、その構造はイデオロギーの内容自体に左右されないのである。戦時下であればそれは愛国精神であり、敗戦後であればそれは反戦である、というだけの差異にすぎない。すると、こうした構造を有する道徳教育は、「戦争の惨禍を繰り返してはならない」という目標を達成するに十分な効力を有するものであるか、という疑問が浮かび上がる。なぜ道徳教育がこの構造と不可分の関係にあるのか、それは、当たり前のことながら、道徳教育の目標が、特定の価値観を効率よく多くの人間に根付かせることにあるからだ。そのためには、特定のイデオロギーは無批判のままにとどまり続けなければならない。では、こうした目標を達成するために、戦争の語り部や『はだしのゲン』がなぜ効果的か。このことをより明確にすべく、別の例を参照する。

昨今、安全保障法案に対するデモがさかんに行われている。国民の政治的関心が高まり、諸々の問題を孕む政策に対して積極的に異議申立てがなされる状況は望ましいことかもしれない。僕自身も現行の政策に対して問題意識がないからデモに参加するつもりがないわけではまったくない。しかしながら、一国民が行いうる範囲の政治的コミットメントは基本的には自らの効用に結びつかないと考えているため、デモに参加することに積極的な意義を見出すことができない、というのが僕のスタンスである。ただし、こうした異議申立てを行うことにこそ意義を見出している人も少なからず存在するだろう。そうした動機についてこのエントリで言及するつもりはない。

一方で、国民一般が同様の理由からデモに参加しているとは考えにくい。僕のデモに対する意思決定が正しいかはわからないが、自らの行動が明確な目標達成に繋がるであろうことを冷徹に検討した後にデモに参加している人がそれほど多いかと言われれば疑問に思う。そのため、ここでは国民一般に対象を敷衍した上で、彼らがデモに参加する動機について考えたい。

デモの映像を見ていて第一に耳にする声は「戦争反対」である。この主張を掘り下げると「自分や子供が強制的に戦争に参加しなければならない状況に反対」という下部構造が浮かび上がる。すなわち、デモにおける主張の多くは「死、あるいは死に準ずる体験への恐怖」に根拠を置くものである。ではなぜこうした「恐怖」がデモの原動力となっているか。『ヤバい経済学』にわかりやすい説明があるため引用する。

条件とかニュアンスとか、そういうものの臭いがすることを言う専門家の話なんて誰も聞いちゃくれないからだ。自分が編み上げた平凡な説を通年に押し上げるなんて錬金術をやろうと思ったら、専門家はあつかましくやらなければいけない。それには一般の人たちの感情に訴えるのが一番だ。感情は筋の通った議論の天敵だからである。感情に関して言えば、そのうちの一つ―恐れ―は他よりとくに強力だ。凶悪殺人鬼。イラク大量破壊兵器BSE牛海綿状脳症)。幼児の突然死。専門家はまずそういう怖い話で私たちを震え上がらせる。意地の悪い叔父さんがまだ小さな子にとても怖い話をするみたいに。そうしておいてアドバイスをするから、とても聞かずにはいられない。 *3

 

デモの思想的主導者はさかんにこの恐怖を扇動しているが、この構造は上の戦争の語り部の例と似通っている。むしろ、幼少期に与えられた「トラウマ的な教条」が、本件において潜在的な恐怖を促進する役割を果たしている可能性は否定出来ない。というのも、国民の圧倒的多数が戦争を体験していない以上、その恐怖を正確に認識している人もいようがないにとかかわらず、戦争への嫌悪は往々にして、まるで戦争を経験してきたかのような口調を伴っているからである。

それはさておき、とりあえず戦争への危機へと人々を駆り立てる原動力を「(死への)恐怖」へと限定する。そこで「『死、あるいは死に準ずる体験』を避けるためにデモに参加する、という選択肢は妥当か」という問いをたてたい。

結論から言うと、僕は妥当だと思わない。まず「個人にとっての自らの、あるいは親族の『死、あるいは死に準ずる体験』は戦争体験だけに還元されるか」という疑問が浮かぶ。簡単にいえば人間が恐怖し、死ぬ理由は戦争だけではないということだ。一秒後も生きている保証は神によってしか担保されないそうだが、あまりにも世界は死への危険で満ち溢れている。

どういうわけか、人は自らコントロール可能なものよりも、コントロール不可能なものに恐怖感を抱くらしい。例えば車の運転に根拠なき自信を持つ人は、飛行機に乗ることに同じく根拠なき恐怖を抱く。天災を過剰に恐れる人が、どういうわけか生活習慣病に無頓着であったりする。

もちろん、戦争の恐怖はその比ではない、最も恐ろしい地獄だ、という意見もあるかもしれない。しかし、それを踏まえたとしても、デモに参加する人々が、自らの身体に対するリスクに対して十分に敏感であるようには思えない。にもかかわらず、戦争への反対がデモのシュプレヒコールの圧倒多数を占めているという状況は、イデオロギーと恐怖心を巧みに利用して作られたものであるように思うのである。そうすると、僕としてはこうした状況を手放しで喜ぶわけにはいかない。前述の通り、その構造はイデオロギーには全く関係なく、そこからはみ出たものを簡単に排除し得る危険性を孕んでいるからである。そうである以上、いまデモに参加している人が、数年後に全く異なる立場に与している可能性は否定できないし、勝ち馬に乗り続けることができなかった人は差別の対象になるかもしれない。同様のことは以前LGBTに関するエントリで書いた。

そもそも、もしどうしても戦争を避けなければならない、何を置いても現政権を引きずりおろさなければならないというのであれば、もっと単純かつ合理的なやり方があるように思えるが、誰もそれをやらないのは何故だろうと思う次第である。

時計仕掛けのりんご (手塚治虫漫画全集)

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*1:本当は終戦記念日にアップするはずだったエントリだが、まとまらなかったので放置していた。

*2:就活に関する一連のエントリで、僕は経験を物語化することの重要性について語った。しかし、人は物語を生きているわけではないので、なんとなくやった行いを隙間なく物語で補強してしまうと、あたかも自分がその時々で、特定の論理に基づいて価値判断を行ったかのように錯覚するようになる。例えば、経済学部に落ちたから法学部に入った、楽なゼミだと聞いたから憲法のゼミに入ったという事実を「高校時代に読んだ日本国憲法の歴史を読んで、この国の根幹を支える規範について関心を持った。将来は外交関係の職につきたいと考えていたため、まずは自国のことについて探求したいと思い法学部を志望した」という後付けの物語で脚色する。そうした捏造を繰り返しているうちに、なんだか自分は当時からそのような考えで法学部に入りたかったのだと思い込むようになる。といった具合である。僕はこの事態が非常に危険だと思っている。

*3:スティーヴン・D・レヴィット、スティーヴン・J・ダブナー著、望月衛訳『ヤバい経済学』東洋経済新報社、2006年、187頁。