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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

価値観と幸福

別に日経ビジネスオンラインの記事をうのみにするつもりはないが、一方で未だ将来の配偶者を年収で足切りする人は多いようだ。僕としては、そういう人がどのように恋人の年収を聞き出すのかが気になるところである。

もちろん、常識と年収がトレードオフの関係にあるとは言わない。しかしながら、人間に与えられた能力は大差なく、他方で時間は客観的には平等に与えられている。この前提を踏まえれば、常軌を逸脱した給与という事実は一つのシグナルとして立ち現れてくるように思える。

それはさておき、配偶者に対する要求が多いこと自体について、僕は悪いこととは思わない。問題は、その要求が正当であるかどうかだ。

自らの資質や能力を市場において数値化するとすれば、その額は当然、そのマーケットにおける需給バランスで決定される外生変数だ。個人はその額でもって将来の配偶者を判断するわけだが、判断する者は同時に判断されることを恐れ続けなければならない。個人の選好に拠るところも当然あるだろうが、年収やステータス、ルックスのような可視化されやすい判断基準が跋扈している現状において、情報の完全性というのはそれなりに担保されている。以前と比べて家族形態も多様化している。ゆえに、玉の輿に乗るのは可能かもしれないが、乗り続けるというのはなかなか難しい、精神をすり減らすゲームであるように思う。

最終的に個人の幸福はその人本人にしかわからないことだと僕は考えている。しかるに、幸福に近づく術があるとするなら、それは、自分にとって(実現可能な)幸福は何であるかを考えぬき、それを得るために必要なリソースを確保し、戦略に従って行動することに尽きる。こうした記事などを目の当たりにする度に、このプロセスにおいて、戦略以外がおろそかになっている人が多いように感じてならない。すなわち、幸福を得るために必要なリソースを確保するという部分である。重要なのは確保すべく行う努力であって、生得的な部分ではない。なぜならそれは審美眼と多分に関わっているからだ。

「現代は消費社会だ」という化石のような言葉を使ってしまうのは心苦しいが、なぜ消費という行為はそもそも問題なのか。それは、消費する主体はあくまで自分であって、自分はその身体性から逃れることができないからである。デカルトは「考える私」を唯一疑い得ない対象としたがゆえに、「私」の条件から「生命」を剥奪してしまったが、果たしてそれは、世界に実際に生存する一箇の生命という前提を過剰なまでに押し付けられた実存としての現代人にとって受けいれるべき命題であろうか。僕はそうは思わない。

消費という行動を定義するとすれば、それは成長なきアクティビティであると考えられる。例えばオタクが漫然と深夜アニメを見続けたからといって、そこに用いられている作画理論や背景知識には決して到達できないように、反省的に自己と向き合わなければ消費する主体に変化はない。あるのは欲望の充足だけである。

欲望の充足であるという点で、確かに消費は幸福を得る行為かもしれない。しかし、いくら気持ちいいからといって痒い背中を掻き続けることが幸福なのかどうかは問いに付す必要があるように思える。

では消費社会とはなにか。消費社会は私たちを成長から疎外することによって、審美眼を奪い、さらなる消費へと私たちの欲望をドライブさせる構造自体を指す。

 例えば、登山家が登山によって得られる幸福は、どれだけ労を割いて説明したとしても一般人には完全には理解できない。なぜならそれは登山を専門に行う人間の身体に対して、登山という行為が幸福をもたらすからである。この例で言えば、消費社会が消費者に流布するものは登山の楽しさではなく、「登山は楽しい」というイメージである。実際に登山を楽しいと思えるようになるまでに成長する過程における労苦は捨象されている。

ではなぜその構造が問題か。一定のアクティビティにおいて審美眼から疎外されるということは、そのアクティビティにおいて自分がどのように幸福を得ることができるか、という判断基準を持つことから疎外されるということである。ブランド品の例を考えれば明らかなことだろう。ブランド品を所有することにおいて、もはや個人の選好は存在しないのである。そこにあるのは、ブランド品を所有できる幸福か、できない不幸かのどちらかである。

同様のことが最初の例にも当てはめることができる。往々にして人は配偶者に対し、過剰とも言えるステータスを求める。その欲求のドライブの源泉がどこにあるかと言えば、審美眼の不在に端を発するものであると僕は結論付ける。かつて次のような言葉があった。

「生まれついての金持ちなら貧乏を憎まない。何故なら貧乏人は彼らのステータスを飾り立てるものであるし、彼らの好奇の対象だからだ。貧乏を憎むものは今現在貧乏である人間か、あるいは貧乏から必死で這い出してきたもののいずれかだ」

今現在この言葉は正当だろうか。誰しもが口をそろえて「年収〜万円以下は嫌だ」と言う。彼らはその年収以下で不幸を感じてきた人間であろうか。僕がこの言説に対して疑問に思う。一つは上記の通り、それを得るに見合うだけの資質や能力の陶冶に励んできたか、という点からだ。これに関しては、生まれ持った資質もあるだろうし、それにどれだけの需要が生まれるかはその市場次第なので深く追求はしない。問題はもう一方の点だ。すなわちその数値と幸福の関係性について考えた上での言説かどうか、という点である。

上記の言説で言えば、それは「年収〜万円以下は貧乏である」という、どこからかもたらされた仮想のイメージによる欲望と恐怖の扇動*1によって突き動かされて出てきたものであるように思えてならない。もちろん大は小を兼ねるという論法は年収にも言えることかもしれないが、上述の通り、人間一人あたりに割り振られたリソースには限りがあるわけで、年収という目に自らが持つチップの全てを賭けることは得策ではないように思う。もちろん、他のステータス一般にもこのことは言えることだ。

例えば経済成長が停滞して久しい欧州では、低所得ながらも効用を増大させる生活モデルが発達している。フランスなら安価で美味しいワインとチーズが普及しているし、飲み会ならフェットという、日本で言う宅飲みのようなものが主流だ。休日には公園が老若男女で賑わっている。低所得ながら、残業が厳しく取り締まられているために、お金を使わずに余暇を過ごす習慣が広がっているわけだ*2

一方で、日本における世間一般の幸福が消費と別のベクトルを向いていない以上、この国でその枠組みから抜けだして独り自らの幸福と向き合うことに専心することは同様に神経をすり減らすことかもしれない。日本においてそれが実践できていると思う人は、往々にしてそのアクティビティと真剣に向き合うことで反省的に自己を高め、そうした世間的な価値観を転倒することに成功した人ばかりだ。

僕はそのアクティビティとして、音楽と思索を選択した。それに少なくないリソースを費やしてきた今までの取り組みから得た手応えから、今後もし、大した年収も稼げず、独身で生涯を終えるといった、世間でいうところの「負け組」状態に陥ったとしても、おそらく音楽と書物があれば、それなりに自己の幸福につながる生き方ができるという朧げな確信を抱きつつある。それは、僕には所与の資質や能力が乏しく従来的な価値観によって得られる幸福もたかがしれているということ、そして、渇望的な消費行動によって得るものの先に、あまり幸福な人生のヴィジョンが見えてこなかったということから取った選択によるものである。

 

*1:この図式については、好例となる事態が今、現実社会で起こっているため、後日別エントリで書く

*2:もちろん、そのようなヨーロッパ人の生活がどのような問題に立脚しているかは別箇に検討する必要があるだろう。国内で面で言えば、例えば貧困層や移民の問題である。