Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

人文学に関する議論

「人文学は役に立つか」という問いがにわかに紛糾している。若手の研究者や院生がツイッターで議論しているが、まずは問いを明確にしないことには議論も平行線をたどると思う(ツイッターでの議論において一番問題となるのはこうした前提の整理だと僕は考えている)。例えば僕はこの問いを前にして次のような疑問が浮かぶ。

 

  • 「人文学」とは具体的に何を指すのか(教養としての人文学か、大学における人文科学なのか、大学の人文科学であるなら文学部に存するすべての学問を含めて良いのか、etc)
  • 「役に立つ」とはどの場面において役に立つことを想定しているのか(個人にとって:ライフサイクル/生活の糧を得る手段/QOL/判断力、社会にとって:外交・グローバル化のため/教養として/文化保持のため、人類一般にとって:多様性の確保、文化的生活の維持、規範的価値の検討)
  • どのように「役に立つ」ことを想定しているのか(論理的思考力の養成、言語ゲーム・背景知識として、情操教育において、テクスト読解力の獲得、etc)
  • 「人文学が役に立つ」ことを論じる意義は何か(なぜ人文学が役に立つことが必要なのか、人文学は本当に役に立たないと考えられているのか、人文学は役に立つかどうかで論じられるような対象なのか、etc)

 

こうした論点整理については科学哲学・倫理学の研究者である伊勢田哲治先生のaskが明瞭である。

 

今回は「人文学(ここでは主に文学や哲学)が不要であると言われる」という事態があり得るのか考えてみたい。

僕個人としては、人文学を積極的に擁護する気はあまりない。個人の効用を考えれば、機会費用の観点から言って人文学を専門的に学ぶメリットはそれほどないと思う。この点についてはまた後に改めて書きたいと思うが、少なくとも万人が人文学を学んだり、あるいは触れる必要はないだろう。本を読まなくても幸福に生きることは十分に可能だ(むしろ僕は、思考の営みは本質的に苦行だと考えている)。

しかしながら、知的労働に従事している人間については話は別だ。いやしくも知的生産活動に携わっている人間を称するなら、文理を問わず人文学に一切触れていないなどということはありえない。グローバルという言葉を使いながら、ソクラテスプラトンニーチェサルトルの四人しか哲学者の名前が出てこないということはないはずだ*1

また、常識的なレベルの判断能力と好奇心があれば、学問をやっていて人文学的な問いを持たないことはないと僕は思っている。

例えば、医者が自分のことを世の中を幸福にする優れた人間だと言っているのを目の当たりにしたら*2、僕ならどういう文脈でそう断じているのか疑問に思う。上で行ったように、ある命題に対して定義を明確にし、批判的に思考することがある程度可能な判断能力があれば、下の画像のような問いが頭をよぎらないということは考えにくい。

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実際に外国語を話すことができる人間なら、翻訳作業がいかに難しいか、言語活動に背景知識や文化がどれだけ影響を及ぼしているか理解しているはずだし、言語活動そのものがどのような構造の下で運用されているか、思考と言語、文化の関係はどのようなものなのか疑問を抱いてしかるべきだろう。

それを踏まえれば、逆もまた真なりで、知的労働に携わりながら人文学に一切関わっていないという人間がいるとするなら、その人にとって学部レベルの学問知識は等しく無価値だと言えるだろう。思うに、よほど素早く適切な教育を受けない限り、経済学や経営学のような実用的と称される学部でさえ、個人の労働生産性を他学部に比べて著しく増大させるということはない。この場合は僕も困ってしまう。常識的な判断能力を持たない人がなんらかの権力を行使し、他人を知的活動から疎外せしめようとする暴力に対して、論理は効力を持たない。

とはいえ、デカルトの方法に従って*3最も単純なレベルまで問題を掘り下げれば説得は可能かもしれない。僕は小学生に物事を教えるとき、これをできるだけ意識している。

社会に生きている以上、いかに無思考的に生活しているように見えても、それはあくまで「放棄」であって、理性がないわけではない。というのも、最低限の理性がなければ社会的逸脱は免れないはずだから。

*1:哲学の知識が欧米のエリートと渡り合うために必要な知識だと僕が考えていることに関しては、以前書いた。

*2:似たような場面に遭遇したことはある。

*3:①真であるとはっきり証明できるもの以外受け付けない(明証)②問題はできるだけ小さい部分に分ける(分析)③一番単純なものから始めて複雑なものに達する(総合)④見落としがないか全てを見直す(枚挙)