読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

現代アートに関して思うところ(再掲)

精神的にいよいよ余裕がない。こういうときは意見を表明することが重荷になる。

とりあえず、何年も昔に書いた現代アートについての考察を再掲してお茶を濁すことにする。いま見てみるとまあ何を偉そうにと思わされるが、基本的にサブカル的な「現代アート」なる運動に対するスタンスは変わっていないので、自戒の意味も込めて掲載する。

 

 

----------

 

 ある人が仰っていました。好き嫌い、巧い下手、面白い面白くない、良い悪い、といった基準は本質的には全く別物であり、それらが比例の関係にある必然性は全くありません。しかしながら、人間不思議なもので、好きなものは技巧的にも優れていて、面白く、良いものだと関連付けてしまいます。そんなわけで、たとえそれが面白くないものだとしても、「面白くない」と言うと、「面白くないけど好きだ」と言わずに「いや、面白い」と反論してしまうのです。全く、人間の性質を上手く描写していると思います。

 ところで僕は、会田氏、村上氏といった人々の作品、ひいては「現代アート」という横文字で称される運動の大半が好きではないです。まあその理由としては品がないとかそういうレヴェルのものなのですが、とにかく上記の基準に照らしあわせて見れば、巧いかどうか、良いかどうかはおいといて、面白く思わないし嫌いということになります。

 しかしながら、これまた人間不思議なもので、嫌いな作品はどうしても巧くもないし悪いものだと断じたくなるわけです。僕も同じ胸中です。ただ、確かに僕はこういった運動が嫌いですが、さらにそれらの運動に対する評価が正当であるかどうか、という点にも疑問を抱いています。果たして彼らの運動は芸術と呼ぶに足るのだろうか。彼らを支持する人々が押しなべて「なんとなく好き」と言うのであれば、僕も「じゃあ芸術家呼ばわりするなよ」と言うだけで、ここまで首を傾げることもないのかと思います。

 とりあえず、感情的になってしまうであろうことは否めませんが、思うままにその辺りのことを考察してみたいと思います。

 

試論:現代アートと西欧芸術史における断絶


 そもそも現代芸術という運動の端緒はダダイスムシュルレアリスムですが、彼らが(思想家・評論家と組みながら)行ったことは既存の「芸術」という概念の問い直しでした。僕はダダイスムシュルレアリスムと所謂現代アートは根本的に別物であると考えております。しかしながら、その違いというのが正に、ここにおけるダダイスムの功罪と言うべき、すなわち芸術の領域に形而上学的概念を持ち込んでしまったことにあるのです。自然科学の発展により学際的な風潮が生まれ始めたことに加え、当時、四人の偉大な哲学者によって各方面から形而上学の問い直しが為されていた以上*1、その運動が哲学にかぎらずあらゆる領域に侵入する可能性は大いにあったわけです。

 しかしながら、そのラディカルさは、解体の解体不可能性を同時に生み出してしまったのです。これらの前衛運動によって、芸術は自らを定義することができなくなってしまい、それをさらに打ち砕くことができなくなってしまったのです。二十世紀の前衛運動以降、芸術家は既存の芸術観に沿った芸術運動を展開することができず、解体の渦に巻き込まれてしまったと言えます。いずれにせよこれらの運動があらゆる「現代の」芸術を現代アートたらしめてしまった要因と鳴っていることは否めないでしょう。

 ダダイスムシュルレアリスムはそこに芸術の解体を行うべく研ぎ澄まされた思想、独創性がありました。しかしながら、現代アートは、ダダイスムシュルレアリスムによって、技巧や既存の価値観を奪われたことに加え(もちろんここには技術発展による技巧の代替が加担しています)、かつての前衛運動と同様の思想を持つことも禁止されてしまいました。なぜなら、もうそれは上記の運動において完結してしまっているのですから。前衛運動以降の芸術運動は押しなべて、既存の前衛運動の表層をなぞることしか許可され得なくなってしまったといえるでしょう。

 以上が二十世紀前衛運動に端を発する現代アートの構造です。結局、現代アートは一世紀近く経った今もなお、その呪縛から抜けだせずにいると言えます。しかし上記の事情を鑑みればそれもむべなるかなと思います。

 要するに私が思うのは、現代アートは「アート」という外来現代語の定義には則するかもしれませんが、西欧芸術史には包摂し得ないものではないかということです。というより、前衛運動がアートという語義に対し、それ以降の芸術的領域における活動全体を包摂するほどの幅広さを与えてしまった、とさえ考えられる。本来であればダダイスム以前で明確に区別されるべきだった「芸術」という言葉が、それ以降も地続き的に用いられてしまったことが問題だったのでしょう。思想と分かちがたく融合してしまった「芸術」を果たして本来の語義通り用いることができるでしょうか?大元の形而上学とその批判の歴史においてすら、デコンストリュクシオンを哲学というのははばかられるのです。

 では、現代芸術家に責任がないかといえばそうとも言えません。なぜなら、前衛運動によって芸術の定義は問いに付されたにすぎず、「解なし」であるとは限らないのですから。解体運動における決定不可能性を考えれば、何が芸術かを決める諸要素は「無い」ということもまた不可能なはずなのです。

 しかしながら、そもそも畑違いの論理を前に彼らは答える術を持たなかったのですから(このへんは上記の前衛運動でも散見されたことですが)、芸術の解体を前に口をつぐんでしまったわけです。残された行動は少しでも多義性を備えたオブジェを論理の前に提示し、彼らにいろいろと意味付けしてもらうのを待つこと、それのみです。結局、押し寄せてきた思想に対し「思考停止」を選んでしまったことが、現代芸術家の落ち度というべきではないでしょうか。何故、思想と芸術がひとつの身体に併存した例がほとんど存在しないのかは疑問な所ではありますが、現在においても思想は言語のことばかりを論い、一方でよく見られるアートの感性勝負一辺倒の風潮は、彼らの思想アレルギーを反映しているようにも感じられます。

 では、現代アートの問題は芸術の定義に尽きるか?また別の問題が浮上してきます。それは、彼ら現代アーティストが(無意識なのかどうかはさておき)こういった構造に巧妙に「棲みついて」しまったことにあります。

 上記の通り、彼らは作品の抽象度を高め、様々な解釈を可能にすることで、その思想的裏付けを別の領域へと丸投げにしてしまいました。このことは(これが一つ目の問題なのですが)さらなる問題へと繋がります。それは解釈の多義性は「後出しジャンケン」にもなりうる、ということです。

 先日、ツイッターでも反広告社(@Anti_Ad_Inc_)というアカウントについて思うことを書きました。どこからかネタ画像を拾ってきてはそれらしい言葉を並べ立てている、それだけならよくあるネット上の自称前衛運動の一つに過ぎませんが(それ以前に私には、2ちゃんを知らないツイッターの人々をだまくらかしてリツイート稼ぎをする転載botの一つに見えますが)、その危険性はやはり解釈の多義性に潜んでいることを感じました。

 あらゆる記号は反復されなければ記号として成立しません。アルファベットでもなんでもいいですが、一つの記号が生まれたら、その意味を誰か別の人が認識し、頭のなかで反復することで初めて、それは記号としての機能を有するのです。この反復から逃れがたい構造と、反復は絶対にオリジナルと差異を持つという逆説を指摘したのがデリダなわけですが、作品が抽象的になるということはその分テクネーとの関係性が希薄になることも示唆します。そうすると、その反復が加速度的に容易に生じやすくなる。

 反復が生じやすくなれば、上記の書いたように現代アートはオリジナルの思想が不在であるという背景を利用して、他人からの論理的意味付けに対して、いくらでも後から反論できると言う事態となってしまいます。都合の良い意見は「最初からそういうつもりで作った」と言え、都合の悪い意見には、これまた別のどこからか引っ張ってきた意見を戦わせ、自身は傍観を決め込む、というやり方も可能です。

 「実は反広告社は、質の悪いパクリ屋を演じることで、それに騙される人々、それを論い非難する人々という構図をツイッターで再現しているのではないか」という考えは成り立つものだと思います。しかしながら、反広告社というアカウントに対して僕が危惧していることは、そんなことは設立当初は考えていなかったのに、ある日突然上の意見すらも盗み、後出し的に「そういうつもりでやっていた」と発言するのではないか、ということです。彼らが単なるパクリ屋であるならまだしも、現代アートの呪縛を悪用し、「反広告社は現代芸術の構造を提示してきたのだ」と締められるとぐうの音も出ません。現在彼らが「広告の焼燬」というような(これまた抽象度の高い)テーマを掲げていることしかしていないあたり、その危険性は十分あるでしょう。

 

 西欧の、特にフランスの文化というのは、思想史を見れば明らかなことですが、オマージュというものが非常に重視されています。彼らの歴史がギリシア・ローマの文化への憧憬と、一方で自分たちの祖先はギリシア・ローマ人ではないという逃れがたい間接性から始まることもその要因の一つでしょうが、「過去を向いたまま未来に進むこと」が彼らのスタンスなのです。絵画においてもそうで、そこには伝統に基づいた明確な神話的テーマがあり、芸術家はその土俵にのることで始めて、その(クリティックという意味での)批判的解釈という形で自らの才を示すことが可能でありました。故に作品が多義性を持つということは本来の芸術の定義上あり得ないことであるとも言えます。これが第二の問題です。

 テーマの不在はオマージュの不在です。原初に有るべき総譜に対しクリティックが不在であるということは、少なくとも近代までの西欧において定義されてきた「芸術運動」とは呼べないのではないでしょうか。

 現代アートに関しては細野不二彦が非常に痛快な批判を行なっております。前衛運動によって芸術の定義が不可能となり、あらゆる表現が芸術と呼べないものではなくなってしまった。同時に感性と評論の分業制の成立。芸術の領域に「価値」が生まれてしまった。

 さすれば、買い手が無知な領域において、斬新なモチーフをかたっぱしからサンプリング(!)し、それを当人はパッケージして叩き売るだけ、そんな極めて商業的、広告代理的な構図が芸術運動として許容されてしまう、という構図が生まれるわけです。現状日本のサブカルチャーがこのような憂き目にあっていることは周知の事実であり(上記の半広告社と2ちゃんねる、そしてツイッターの人々という構図そのものですが)、その剽窃の担い手たる彼の人はギャラリーフェイクにおいて痛烈に批判されているというわけです*2

 思想のフィールドにおいては、既存の思想の表層をなぞって言葉遊びをしていた思想家はソーカル事件によって糾弾されました。しかしながら、芸術は形而上学とは異なるものであり、論理的解釈が不可能なものです。故に、その構造上、誰も現代アートという芸術運動を芸術運動ではないと批判できない。先の無意識的な棲み着きとはこのことです。芸術という概念の多義性、あるいは決定不可能性を盾に、おおよそ芸術らしからぬ「流通業」が免罪されていることを、細野氏は批判するのです。

 当然、こういった芸術の商業化、打算化には前述のオマージュの不在も相まっているでしょう。先人への敬意が無ければ剽窃も(よりラディカルな形式で)ありうるわけです。来歴データベースに侵入することで絵画の価値を釣り上げるといった、美術史上例を見ない異常な事件が発生したのもこの潮流が成立した後です。レディ・メイドが容認されたことにより、優れた技術や感性を持たずとも芸術活動を行い、作品を呈示することができるようになりました。確かに贋作は現代だけでなく古今東西あらゆる芸術と表裏一体のものでした。しかしながら、技芸に対し思想(評論)が先行するようになったことで、絵画自体の美的価値が転倒し、背後に潜む署名、来歴と言った記号にその価値が還元されるといった状況が生まれたために、未だかつて無い、「芸術を芸術と思わないような」詐欺事件が帰結として起こったわけです。

 しかしながら、「絵画なんて汚れた紙だ」という言葉の通り、実際には芸術の本質的無価値性がこの構造を巧妙に隠しているように思えます。それはもちろん価値の流動性という面もありますが、Fxなんかにも言えることですが、資本の流動が財布の中身という形で可視化しなくなっていることが、芸術が商業化していることを感覚的にわかりづらくせしめている。これまた先の細野不二彦が例示していたことですが、買い手の財布を放り投げて「これがアートだ!」と宣わない限り、アートは人畜無害だというドグマは横行を続けるのではないでしょうか。

 

 長くなりましたが、結論を言えばやはり、現代アートは「アート」という外来語であって「芸術」ではない。ということになりましょうか。誰もマンガや風刺画を芸術っていわないよね、ってことです。

 そして、現代アート代表取締役たる彼らの所行は、アートが芸術の皮を被るという構造を巧みに利用した極めて商業的なものである。それは彼らでなくてもできたことだし、別の領域でも可能だったわけです。例えば、田中圭一が自分の作品を手塚治虫を知らない(そんなところは存在しないでしょうが)海外に持って行って「これは僕のオリジナルです」とたたき売りして大儲けしたら批判されるのは当然でしょう。しかもそれに対して「自分は手塚治虫を海外の言語ゲームに翻訳する使命を担っている」と反論されたら、閉口せざるを得ないでしょう。デリダを初め、現代思想家による形而上学の解体には、想像を絶するほどの論理の精緻さ、そして何よりーデコンストリュクシオンはニヒリズムではなく、肯定と歓待の思想だと言ったのは高橋氏でしたがー彼らの批判には先人に対するオマージュがありました。それはもはや「美」とすら形容できるでしょう。しかし、彼らの作品に思想はあり得ませんし、そのモチーフすらオマージュなきサンプリングとあれば、それをアーティスティックと形容することにためらいを禁じえません。

 あと、前述の技術発展による技巧の代替ですが、消去法的な感性への注目を生み出しこそすれ、感性の先鋭化にはあまり寄与していないように感じます。なぜなら、感性は、天賦の才を要するとは言え、アプリオリに洗練されたものではないからです。いかに優れた知性を備えた人であろうと知識無くして思考が成り立たないように、技巧的経験は感性の練磨に必要不可欠であると私は思います。土俵が低くなることは埋もれた才能を引き出すことに寄与すると簡易楽器が誕生するたびにミュージシャンは主張しますが、それによって錆びつく才能もある可能性を考慮すべきではないか、という意見は少々主観的に過ぎると反省していますが。

 

 ちなみに「いいじゃん面白いんだから」「なんとなく楽しければ良い」という意見には「pixivでやれ」と返したいところです。前述のとおり論理で芸術を語るのはナンセンスかもしれませんが、そもそも言語化は押しなべて比喩的行為なので、せめて感想くらいは、論理的なルールに則って言葉にするのがホモ・サピエンスとしての義務ではないでしょうか(それを放棄するから渋谷のシェアハウスのようなホモ・サピエンスを逸脱した現象も生まれるのでしょうが)。余談ながら、最初に「あぜ道」を観た感想は、「まあ面白いけど、どうせ誰かがまたpixivあたりから転載してきたんだな。」というようなものでした。

 実際のところは、会田氏も村上氏もそんなイヤミをしているつもりはない、ただの「良い人」なのでしょう。各方面の話を総括する限りそのような印象です。それがまた上記の運動を加速させているとまで言ってしまうと「何も知らないくせにいい加減にしろ」と言われそうですが、まあ自分が面白いと思うことをやっていたら必要以上に持ち上げられ貶されてしまったといったところでしょうか。

*1:今村仁司等『現代思想の源流』1996年、講談社

*2:詳しくはギャラリーフェイク22巻所収「カリスマ真贋」を参照のこと