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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

教えるということ

一ヶ月ほど前から塾講師のアルバイトを行っている。集団指導で大体10〜20人相手に講義をしている。なかなか人前でダレずに話をするのは難しく、聞いている方が理解できているかどうかに気を配れずにいるのが当面の課題となっているのだが、先日の授業で興味深い事態に出くわした。

 

中1の社会を教えている時のことだ。国家の資格要件として、テキストには

 

「国家の条件:住民、領土、政府」

 

と書いていた。中学地理の範囲では外交能力は教えなくて良いのかと思いながらも、とりあえず政府が住民と領土を統治している状態を国家と言うんだよと説明してみた。すると一人の生徒から、

 

「例えば北方領土には日本人はいないのに、何故日本がロシアに対して領有を主張できるのですか?」

 

という質問が挙がった。

確かに上の説明を聞いた限りではそのような質問が挙がるのも当然だ。中学地理のテキストを読んだだけでは、北方領土問題にアプローチすることはできない。もう少し踏み込んだ議論が必要である。

例えば上記の質問に答えるためには、まず無人島を思い浮かべてみるのが手っ取り早い。なぜ日本に無人島という地域が存在するか。それは、国際法上定められている国家の資格要件として領土が厳密に国境として規定されている必要はなく、同時に国民が遍く領土に住んでいる必要もないからである。実際、紛争地域では国境が頻繁に変化する。この時点で端的に言えば、領土が無人島であれ、領有を主張することは可能であるという結論が出る。ではその根拠はどこにあるか。

例えば、無主地の無人島を買収した上で独立国家を宣言できるか。宣言は可能だ。しかし、モンテビデオ条約を知っていれば、国家の資格要件が「住民、領土、政府」だけではないことを知っているはずだ。先述の通り「外交能力(対外的自決)」が構成要素となっているのである。

要するに、無主地において国家成立の宣言は可能だが、それを国家と承認する他国が存在しなければ、国家として成立していないも同然であるというのが国際法上の通説である。例えば、シーランド公国は自然の延長としての領土を持たず、さらに他国の承認を持たないため、国家の資格要件を充たさず、故に国際法上の国家ではないとされる。

 つまり、日本が実効的先占を及ぼしていた以上、戦後において国民が強制退去させられたことで現状日本人がいないからといって、それが北方領土に対する領有が主張できないことの直接の理由にはならない。逆に言えば、外交能力なく対外的に無主地の領有を主張することは難しいと言える。

ここで一度国家の構成要素同士の関係を整理すると、民主国家においては国民の信託により政府が存立し、その政府が国民及び領土を統治し、その権威を他国に表明すると分析し得る。つまり、国民がいるところが領土であって、政府がそこを支配している、というわけではないし、国民と領土と政府があれば国家として成立するわけでもないのだ。

先の問いに戻ろう。「北方領土には日本人はいないのに、何故日本がロシアに対して領有を主張できるのですか?」という質問に対する答えとしては「日本は民主国家として北方領土を統治していた歴史的事実があるため、そこに現在日本人がいないからといって領有を主張できないことにはならない。何故なら、領土とは国民が住む土地という意味ではないからだ」ということができるだろう。もちろん中学生にはもっと噛み砕いて説明したが。

ではなぜその北方領土に対してロシアが領有を主張しており、解決の糸口が見えないのかについてはさらに紙幅を要するため、その場でそれ以上踏み込むことはしなかったが、国際法と現代史の基礎知識を踏まえればそれほど熟考が必要な問いではないだろう。

何が言いたいかというと、たかだか中学地理の一知識にすぎない箇所でも、それを筋道立てて理解するためには地理だけではない知識が要請されるのである。国境や領土は国際関係の領域で画定されてきたルールなのであって、それを 知っていないとただ教科書に書かれている事実をなぞるだけになってしまう。

プレゼンも同じだ。聞き手からの質問を想定して準備するためには、プレゼンテーターは課題図書の何倍もの参考文献を読んでおく必要がある。何かを人に教示するためには、その領域の知識だけでは足りないのである。

では中学生程度ではこのような地理だけに還元されないような疑問を持たないか。中学生にはその議論を説明したところで理解できないか。上で見たとおり、考える学生は中学生だろうと考えているし、噛み砕いて説明すれば理解できる。噛み砕いた説明をするために知識が必要なだけである。

このようなことを、先日の体験からあらためて気付かされた。同時に、知識だけではなく、現実の事象に対してアプローチ出来るだけの思考の流れを、教科書に留まること無く教示していくことも視野に入れる必要があるなと痛感した次第だ。せっかく議論の意志と能力があるのに、それを陶冶せず、時事的な問題からいつまでたっても疎外されたまま、というのは非常にもったいない話だからだ。

僕は、学生が自分で思考し、議論を行うことができるように必要な知識を用意するのが教師の役割だと思っている。

 

 

余談だが、フランス人は難しい質問をされると「良い質問だねbonne question」と言う。僕はこの表現が大好きなので、普段から使う。英語だったら「大変な問題tough question」というだろうか。いずれにせよ「難しいdifficult」と言わないのがポイントである。要するに、難しいというのは達成ができそうにない課題に対する形容詞であり、解決に挑戦する意志がないという表明になる。

塾講師をやっている知り合いに話を聞くと、自分でもわからない質問をされることはしょっちゅうで、そういうときは「調べてくる」というそうだ。なんとも正直な話だ。

僕も例えば日本史に関する知識はほとんどないので人のことは言えない。「徳川家将軍の名前を全部教えて下さい」と言われても答えられないし、かようなクイズ的一問一答に答えるつもりはそもそもない。教科書を読めば答えは載っているからだ。逆に、理詰めで考えることのできる問いに関して投げ出すつもりはないし、そこに必要な最低限の常識や議論の枠組みは取り揃えているつもりだ。上の質問にしたって、本当に優秀な人間なら僕みたいに国際法のソースを引くまでもなく、ある程度妥当な推論を導き出すに違いない。

たとえ正確な答えを持っていないにしても、一緒に考えてみようという姿勢は半学半教の精神として教師に必要なものだと僕は思う。僕の知る優秀な教員は、単に自説を披露するだけに陥らず、中学生を思考に導く問いの投げかけ方が非常に上手い。

もちろん教師は学生がどのように思考するかを予想し、導く役割を担うため、自ら論理的に妥当な推論を行う能力は必要だろう。