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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

フランス人とサッカー選手

フランスのサッカー熱は相当のもので、僕も短期留学中にサッカーを観戦する機会があったが、サポーターの熱気やヤジは凄まじかった(僕が行ったのはリヨンだが、現地人いわく「リヨンのサポーターはおとなしい」らしい)。

 

これは先日フランス人の先生から聞いた話だ。

日本ではプロサッカー選手のほとんどが高校を卒業し、時には大学へと進学する。比べてフランスのプロサッカー界には相当数、移民や貧困層出身の選手がおり、彼らは中学校に進学することすらなくジュニアユースへと進むことも多い。

日本のサッカー選手が高校で十分に勉強しているかはさておき、フランスのサッカー選手は出自のせいで義務教育もろくに享受しないまま、13歳やそこらで教養から隔絶されることになる。それ故に、フランス人のサッカー選手への揶揄もなかなか辛辣なものになる。要するに日本人がクイズ番組で小学生レベルの知識すら持っていないことを露呈するタレントをバカにするのと同じである。

特にフランス語は文法体系がかなり緻密な言語であるので、フランス人は言語運用能力がそのままインテリジェンスを反映すると考えている節もある。したがって、フランス人も、サッカー選手のフランス語を痛烈に批判する。

曰く、こんな言葉がある。「フランスのサッカー選手は寡黙なバカかよく喋るバカかのどちらかだ」。つまり、サッカー選手は大体頭が悪い。ただし、自らの無教養を理解し、それを露呈しないように寡黙でいる連中はその中でもマシなほうである。深刻なのはそれに気づかずにべらべらと喋る奴らだ、ということだ。

よく前者として挙げられるのはジネディーヌ・ジダンだ。彼はアルジェリア移民2世であり、貧困街出身である。両親には、ジダンに教育を受けさせるだけの収入もなかったそうだ。しかし彼は喋らない。それは彼が思慮深いからだ、というのがフランス人の評価である。

後者として取り沙汰されるのはフランク・リベリーである。多分いちばん有名かつ深刻な間違いはこれ。

「運命の輪が回るLa roue tourne」という表現がある。しかし彼は「運命の輪の回転La routourne」と、この表現がそのまま名詞だと勘違いしている。そのため、彼は「運命の輪の回転が目まぐるしく回るだろう」と言って、「回るtourner」を二回使っているのである。だからアナウンサーは「運命の輪の回転ってなんだっけ、、、どれどれ」と辞書を繰っているわけだ。

まあこんな具合に、フランス語を学び始めた外国人がやらかすレベル間違いを平気でする上に、非常におしゃべりなので、彼の言動はしょっちゅうネタにされている。

江戸時代、寺子屋の教育によって日本国民の識字率は8割を越えていた。近代以降の日本の教育制度は、その質はともかく、世界でもトップクラスの普及率を維持し続けている。それ故に、その教育を享受し、必要最低限の教養を身につけることは、多分に個々人の意思によるところが大きい。要するに、義務教育を自ら放棄しない限りは、最低限度の文化的生活を送る権利が未成年に保障されている。

それ故に、一般教養のない成人は自らの怠惰を声明しているようなもので、クイズ番組に出演する「おバカタレント」がそれを批判されるのもむべなるかなとは思う(また逆に、それを見て相対的な安心感を得ようとする態度にも思うところはあるが、それはまた別の機会に)。

一方で、前述のフランスサッカー選手は、その出自ゆえに義務教育を受ける機会すら与えられなかったことが往々にしてある。彼らは勉強する機会がなかったため、勝負するフィールドをサッカーへと移したわけだ。

僕が子どもの頃、学校のクラスに軽度の知的障害を持つ子どもがいた。クラスにいる頃はバカにされていたが、進級とともに障害者学級に移ると、周囲は彼をバカにするのを辞め、はれものを触るかのように扱うようになった。そこには「生まれ持っての障害をバカにしてはいけない」という心理が働いたのだろう。

バカにしてはいけないラインが存在するのであれば、どこまでがそのラインに該当するかが問題となる。障害と認定されればそうなのだろうか。教育を受けられない子どもがその生涯の中でバカにされることはあってはならないのか。プロフェッションと教養、生涯と個性。問題は複雑であるがゆえに、僕にはフランス人のようにリベリーを揶揄することはできない。