Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

教育とは

 

ちいさな哲学者たち [DVD]

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今から三年ほど前だろうか、このような映画を観た。フランスの幼児教育における哲学教育というテーマのドキュメンタリーだ。

もう内容はほとんど覚えていないが、聞くところによるとフランスの保育士資格は院卒が条件だそうだ。

幼児教育に理性的思考を持ち込むべきかについては、僕はあまり肯定的な立場ではない。何故なら第一にシニフィアンシニフィエが一致していない段階から抽象的な思考を行わせるのは尚早だと思うし、第二に議論を行うだけの身体的成熟がなされていないからだ。つまり、何十分もルールに沿った行動ができるほど、規律的に生きていないということだ。これは幼稚園児だけに言えることではなく、小学生中学生だろうができない人間はいる。母数の問題である。

とはいえ、哲学的思考の習得および訓練を大学入学までに行うというフランスの教育スタイルは日本でも導入すべきだというのが僕の考えだ。

身近なテーマに対して先人の思考を辿りつつ検討し、議論を深めるというのは、かなり原初的な知的欲求だと思う。故に、狭義の意味での教育とは、日常や常識の中にある問題に気づかせ、それについて考えるエッセンスを提示することから始まるはずだ。例えばフランスの高校で使われている哲学の教科書は「気を失うとき、いったい何が消えるのだろう?」とか、そういう簡単な疑問をぶつけることから始まっている。

日本の受験教育的な詰め込みを否定するつもりはなく、僕もそうやって大学に入学したクチなので短期的な結果には結びつくと思う。しかし、背後にあるストーリーを追わずに定着させた知識はおどろくほど早く抜けていくので、長期的には効率が悪い。そのため、知識を身につけるためにも、流れを押さえた学習が必要となる。

そうすると、教科書を基に解説を行う教師の負荷は相対的に高まるため、教師に求められる力量は大きくなる。昨今モンスターペアレントが話題になっているが、大学の教職課程のチャチさを鑑みても、教師の力量不足というのを僕は同様に大きな問題として感じている。

反して、博士課程を修了した非常勤講師には本当に教育者として優秀な人がいる。例えばゼミで読書レジュメのプレゼンをするにあたって、質問への適切な受け答えまで考慮した準備をするなら、課題図書の数倍の二次資料調査を行う必要がある。つまり、一定の資料の論旨を適切に抽出し、その流れを背景知識を交えてわかりやすく発表する、というのが、「聞き手の理解を促進させるプレゼンテーション」の条件だと僕は考えている。このあたりは池上彰の『わかりやすく〈伝える〉技術』を参考にしている。

わかりやすく〈伝える〉技術 (講談社現代新書)

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 これは同時に、アカデミックな議論を行うために必要な能力でもある。ある程度の知識と、その運用能力が、研究においても、教育においても必要なのである。この点では、大学教授がこの2つの職業を両立しているというのは合理的かもしれない。

すなわち僕は、論理的思考のようなプリンシパルな領域の教育に関しては、義務教育・専門教育を問わず教師の能力が多分に問われると考えており、その能力はある程度アカデミズムと切り離せない関係にあると思っている。もちろん、ソクラテスが現代初等教育における理科の内容を知らなかったからと言って、彼の産婆術を否定するようなつもりは全くない。しかしながら、現代的な諸問題を考えるにあたって専門的知識は不可欠のものとなりつつある。成熟した経済・社会制度にしても、自然科学にしてもそうだ。

以前、教職課程の条件に院卒が追加されるかもしれないというニュースが話題になったが、あれは結局どうなったのだろうか。社会にでず教職につくのであれば、せめて単なる情報処理だけではない*1、専門的な研究に触れておいたほうが良いのではと僕は思う。

 

 

 

*1:情報処理だけで修士号を取る人もいるだろうが。