Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

哲学における逡巡の態度

フロイト『快感原則の彼岸』を読んだ。

とかくフロイトは誤解されやすい思想家だ。例えばリビドーで人間の心理をすべて語ろうとしているとか。僕も割りとそんなイメージを持っていたし、そもそも精神分析にはあまり興味が無いので敬遠していた。

だが、この論考からは、一度打ち出した快感原則を大胆に否定し、認めたくないが死への欲動が人間の本質にはプログラムされているのではないか、と仮説をたてる。

フロイトという人は終生、帰納的に物事を考えた人だったんだなと思った。決して論理を飛躍させることなく、新たな症例に対して自らの論を反省する態度が本論には見て取れる。本論では症例だけでなく、当時の生物学や臨床の状況を鑑みて、そこから仮説を抽出しようとしている。

哲学は真理へと到達しようとする思考の試みであるが、安直な答えに収まり続ける態度は哲学的であるとはいえない。これは日常においても言えることで、十分な考察がなされないままに「結局世界ってこういうことでしょ」と言い切る態度を無批判に受入れることはない。

フッサールもまた、終生逡巡を繰り返し、決して結論に至ることなく自論を批判し続けた。僕は哲学的態度とはこの逡巡の繰り返しにあると思っている。哲学とは到達し得ない真理への錯誤の運動でもあるからだ。この辺は齊藤慶典先生が情愛の念を込めて彼を「愚鈍」と呼ぶところに重なるのではないだろうか。

そういう意味でフロイトの態度は非常に哲学者然としているな、と思った。逆に、特に木田元が「反哲学」と呼ぶところの現代哲学は当然ながら過去の議論を批判的に継承しながら自説を展開するわけだが、その哲学史的意義を過剰に意識してしまうと、自説の正当性を論理的に防御しようとすることに陥ってしまったり、あるいは自説を批判する態度を失ってしまうのではないかと思う。これは別に歴史上の人物に限った話ではなく、論考を行うあらゆる人間に言えることであるが。

レヴィナスを読んでいると、彼は議論においてかなり原初的な前提として生への愛や幸福を措定しているように思えてくる。果たしてそこに至る議論はあったのか、というのが目下気になっているところである。

 

本論はレジュメしようか迷ったが、後半をまとめるのは骨が折れそうだったので中絶。もしかしたらもう少し詳しくフロイトについて考察するかもしれない。