Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

グローバルエリートとはなにか

グローバルエリートという言葉をツイッター上でしょっちゅう見る。

そもそも「グローバルエリート」なんてフレーズ、自分で言っていて恥ずかしくならないのか疑問に思うが、もし字面通りに「グローバルなエリート」を指すべくこの言葉を用いているのであれば、この言葉について説明するコラムのどれひとつとして、その語義を正確に捉えていないように僕には思える。

端的に言えば、コラムニストの頭のなかに空想のエリート像があって、それが外国人ならグローバル、という構成のされ方が順序としてあるような気がしてならない。というのも社会的身分がどうであれ、コラムで若者を煽って日銭を稼ぐような人間がグローバルエリートなるものと知己であること自体が疑わしいのであるが、僕の考えでは日本には「グローバルエリート」はいない。

 

まずエリートとはなんであろうか。言葉自体は「選ぶélir」というフランス語から派生したもので、「選ばれた者」という意味だ。つまり、指導的立場として選出された優秀な人間を指す。

ラテン語まで遡れば、「選ばれた者」とはすなわち「神に選ばれた者」である。そこには当然キリスト教的な滅私奉公の精神が含まれるわけで、公的職務に就くものを指す。要するにエリートとは、その語源からして官僚を指していたわけである。

であるからして、エリートとは本来、「専門技能に長けた官僚」であると定義しうる。

実際、フランスは大革命以降の国家再建のため、高度な専門技能を持つ人間の養成のためにグランゼコールが設立された。いわゆるテクノクラート、ビュロークラートの養成機関であり、現在に至るまでフランスのエリート階層は、グランゼコールから輩出されている。

 

確かに、官僚がエリートであるというイメージは現在においてもつきものだが、だからといって現代社会においてエリートが官僚に限定されているわけではない。実際、グランゼコールは官民を問わず、様々な分野に人材を輩出している。

また、東大生が就職に困る例もある日本とは違い、グランゼコールに在籍する学生には就活をせずとも企業からオファーが来る。何故、グランゼコールは現在に至るまで権威を保持し続けているのだろうか。

ここで先ほど定義したエリートの条件が浮かび上がる。グランゼコールが信頼される名門校であり続けている理由、それは、グランゼコールが「専門技能に長けた人物」の養成という機能を十全に果たしているからであると推測できる。

フランスの学生はとにかく勉強する。

先日、フランス国立東洋言語文化研究所 (INALCO/日本で言う東京外国語大学)の学生に会ったが、やはり気の遠くなるほど勉強をするそうだ。実際、彼女の日本語はかなり熟達していた。

中でもエリート候補はバカロレア取得後も大学に行かずに2年間ほど勉学を重ね、エコール・ノルマルをはじめとするグランゼコールに入学する。当然グランゼコールに在学している間、寝食を惜しんで勉強をし、議論を重ねる。フランスには進学塾というものがないため、情報処理能力に長け、インテリジェンスに通じた親を持つ学生が集まる。世襲的になるのはしょうがないとして、現状、要領の良さだけで太刀打ちできる世界ではない。

グランゼコールの一つである国立行政学院École Normale d'Administrationの校長であるNathalie Loiseau氏は次のように述べる。

 

エリートが教養豊かな知識人でなければならないという価値観は、フランスの伝統そのものです。事実、ENAの入試では、一般教養の知識をかなり問います。リーダーになるためには、高度な常識が絶対に必要だからです。中世の詩を暗唱したり、ルネサンス期の音楽家について問うというような知識ではありません。世の中の出来事を、哲学的、文化的、歴史的な観点から検証する能力です。つまり、「出来事の背景にある価値観を見抜く高度な常識」が問われる。ENAの理念は、物事の価値観を把握し、普遍的な“職業倫理”を習得することにあります。

 

自らを商品化するための専門知識は言うまでもなく、広く一般常識、教養を身につけることが望まれる。特にフランスは教養に対する信頼が厚い。フランスでは高校教育において哲学が必修であり、大学入学資格であるバカロレアの試験においても非常に大きなウェイトを占めている。しかも論文形式だ。その制度が存在する理由としては、フランスにおいて、一般教養が労働市場に参入するための条件であり、また専門技能の運用に不可欠な要素であるという共通認識があるからだと推測できる。

 

しかしながら、それはフランスに限った話ではない。慶應義塾大学の大和田俊之教授はアメリカの名門校コロンビア大学でのエピソードをブログに書いている。

 曰く、コロンビア大学の学生は1年間で西欧圏においてクラシックとされる書物を片っ端から読み、読解を学び、議論するというのだ。この制度はOB/OGからの寄付に拠るところが大きいらしいので、少なくともコロンビア大学出身のインテリは、西洋古典の素養を修得することは大学一年間の大部分を注ぎ込むだけの価値を持つと判断しているのだろう。

 

上のような欧米の求める水準の一般教養、専門知識を身につけるには、大学生活のほとんどを勉学につぎ込まなければならない。欧米にはバイトをする学生はいないと言うが、当然バイトをするなどという選択肢は、機会費用を考慮するまでもなくそもそも眼中にないのだろう。

一方で、天下泰平、マーク式の画一的な試験を要領よく暗記するだけで突破するような学生だらけの空間で、いかに単位を楽に取得するか、いかに他人へのアピールになるようなアクティビティに取り組めるか、それしか考えていないで、どうやってグローバルエリートと渡り合おうというのだろう。それ以前に、日本人は西欧諸語が母国語ではないという、恐ろしく巨大なハンディを埋め合わせるために長大な時間を割かなければならない。すべての余暇を勉学につぎ込んだとしても彼らに追いつけるか怪しいところだ。

確かに日本の大学生の生活が徹頭徹尾非生産的であるとは言わない。人脈形成のために学生団体の運営に精を出す人もいてしかるべきだろう。ただし、人脈とは、自らに付加価値があって初めて成立するものであって、誰も自分の得にならない人間をビジネスパートナーとして考えないだろう。

もちろん日本のコモンセンスが、表層的な人脈形成に価値があると考えているのであれば、そうしたアクティビティも有効であろうが、上で見たとおりそれは日本においてインサイダーである限りにおいての話だ。当然「グローバル」という単語とは決定的に乖離するものだろう。英語でコントラクトを結べる程度の能力が、日本の企業にとっての「グローバルエリート」であるのなら、これ以上特に言うことはないが。