Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

反抗期

反抗期は誰にでもある。僕も万年反抗期のような人間だ。

一方で、反抗期と親との仲違いは似て非なるものだと思う。反抗期は親にかぎらず、既存の社会的枠組みと自分の齟齬に気づく期間だと思うからだ。

以前、どこかのアンケートで父親のことを嫌いだと言う思春期の女の子が少なくなっている、というのを見た。コメンテータは驚いていた。子どもには反抗期があり、それはまずもって親への反抗であるという認識は、いつの間にか常識として刷り込まれている。反抗期を迎えている当の子どもたちにさえ。

確かに親への嫌悪感と反抗期の因果関係はあるだろう。ただ、大した理由もなしにそう簡単に人を嫌い続けられるか、といえばそうでも無い気がする。

逆もまた真なりで、はしかのような一過性の病として反抗期は認識されていないだろうか。つまり、子どもに距離を置かれているのは子どもが反抗期だからであり、放っておけばいずれ元通りになる、と。誰かに嫌われ続けるということは、往々にしてそれなりの理由があるように思う。

はしかはどうやら日本から消滅したらしいが、反抗期はどうだろうか。他人の態度の変化を反抗期なり更年期障害なり、そういった「症状」にすべて還元してしまっていないか、注意が必要だろう。デルフィは構造主義を引き継ぎ、「ジェンダー(社会的性)がセックス(生物学的性)に先行している」と言ってのけた。すなわち、「男/女」という二項対立の存立様式を思考の避けがたい枠組みとして引き受けてしまった僕たちは、もはや性をその在り方でしか「構築」できない、と。

もちろんこの転回的な論を素朴に受け取るつもりはない。しかしながら、人間が生み出すカテゴリーは必ずしも客観的な事象をありのまま捉えるものではなく、その枠組によって認識が歪められる可能性は大いに有り得る。言語的世界を生きる僕らはそのフィルターを外すことはできないが、僕らが採用している枠組みの切り取りかたとは別の仕方で物事を見る必要はあるだろう。「生物学的な」という言葉に対して僕らはかなり無防備だからだ。