Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

社説

なんだか最近の自分の文章を読み直してみると、ダメな社説っぽいなと感じる。

僕が思う「ダメな社説」とは、独断的な文章のことだ。つまり論理展開にあたって充分な根拠が示されていないものを指す。例えば問題提起型の小論なら次のような構成が想定されうる。

  1. 問題提起
  2. 分析(何故生じているか・その因果関係はどのようなものか・そもそもその問題は存在するか・その問題は何故問題なのか)
  3. 解決案の提示

論文なら「分析」の段階で充分な論拠を出典を明確にしながら提示することで説得力を持たせることができ、またそれが必須の作業になる。しかしながら、新聞の社説など、紙幅が限られる媒体においては、その作業がどうしてもおろそかになりがちになる。結果、充分な分析が為されないまま解決案が提示されたり、それどころか問題提起の段階で打ち止め、という事態が往々にして生じる。これでは客観的な論証とは呼べない。

一方で僕がブログで書く文章だが、やはりこのプロセスが入念に行われているとは言えない。例えば上の文章では、「社説は客観的な論証を必要とするか」、「そもそもダメな社説は存在するのか」に対して論証、あるいは例示を行っていない。

もう少し踏み込んで本エントリを書くにあたって頭に浮かんだことを整理してみる。例えば僕が今回槍玉に挙げているのは天声人語などであり、なぜそう思ったかというと電車の広告で以前引用されていた天声人語の記事と「天声人語の優れた文章を写経しよう」というような宣伝に違和感を覚えたからだ。そこまで優れた文章には見えない、それどころかむしろ、という感想を覚えた。

しかし僕は「自分の文章が社説のようだ」という直感が生まれるやいなや、このプロットを書き始めている。要するに、社説の批判がこのエントリの目的ではない。別にこれから天声人語を何十個も読み、「ダメな社説」に当てはまる社説を引用してくるつもりはない。

とはいえ、何かを批評するのであればその作業は必須であるし、例え自分の書く文の第一の目的が批判でないとしても、やはり何かを論う作業がそこに含まれるのであればある程度の論証は必要だろう。教条的な表現が増えれば論証を行う思考が疎かになる危険性も伴う。

というわけで、今回は「天声人語 批判」などの検索ワードで、随所で引っかかる文章を最後に引用しておく。一読したが、これはもはや論証云々以前の問題のような気がするので本エントリの論旨からそれているのは否めないが。

 

3年前の秋、自民党は落ち武者集団を見るようだった。政権を明け渡し、「自民党という名が国民に嫌われている」と党名を変える動きもあった。「和魂党」やら「自由新党」やら、まじめに考えていたらしい▼支援団体は離れ、陳情は減り、食い慣れぬ冷や飯のせいか無気力と自嘲さえ漂った。その斜陽から、新総裁が次期首相と目される党勢の復活である。「ある者の愚行は、他の者の財産である」と古人は言ったが、民主党の重ねる愚行(拙政)で、自民は財産(支持)を積み直した▼とはいえ総裁に安倍晋三元首相が返り咲いたのは、どこか「なつメロ」を聴く思いがする。セピアがかった旋律だ。当初は劣勢と見られたが、尖閣諸島竹島から吹くナショナリズムの風に、うまく乗ったようである▼1回目の投票で2位だった候補が決選投票で逆転したのは、1956年の石橋湛山以来になる。その決選で敗れたのが安倍氏の祖父の岸信介だったのは因縁めく。「もはや戦後ではない」と経済白書がうたった年のことだ▼以降の自民党は、国民に潜在する現状維持意識に根を張って長期政権を保ってきた。人心を逸(そ)らさぬ程度に首相交代を繰り返してきたが、3年前に賞味期限が切れた▼思えば自民は、原発を推し進め、安全神話を作り上げ、尖閣竹島では無為を続け、国の借金を膨らませてきた。景気よく民主党を罵倒するだけで済まないのは、よくお分かりだと思う。たまさかの上げ潮に浮かれず、責任を省みてほしい。


2012年9月27日(木)付 天声人語より