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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

「勝ち組」論

「財産、それは窃盗である La propriété, c'est le vol !」

ー ピエール・ジョセフ・プルードン(1809-1865)

 

「勝ち組」という言葉が生まれてからどのくらい経つのだろうか。金銭の多寡という、現実的(と信じられているようだ)な指標によって人々の位置を端的に示す言葉として、「勝ち組/負け組」は未だ、強力な魔力でもって世間に汎く膾炙しているようだ。

この言葉を取り巻く言説にはまるでユダヤ人差別かのような全体主義の匂いを感じてしまう。かつて、あらゆる論理の飛躍を伴って、自身のユダヤ人嫌いの正当化を試みた人々のように、拝金主義者は「大は小を兼ねる」論法の下、あらゆる幸福の要因の根源に財を据えることを強いる。

 

 「このドラマの登場人物が楽しそうなのは所得が多く良い家にすんでいるからだ」

 「お金持ちであればその分いろんなところに行って遊べるから幸せだ」

 

彼らの論理の枠組みにおいては、財が幸福の数値化をする上での共通言語としての役割を果たしているのである。しかしながら、年収と幸福度-「幸福度」という指標も曖昧模糊で多義的だと思うが-の両者が比例した統計的事実など、古今東西どこにも存在しないだろう。

「勝ち組/負け組」、その論理に従ってサヴァイヴすることについては、大いに結構だと思う。だが、幸福に至るプロセスとしてそれが正当なものなのだろうかと言う問いが僕の中にはある。そして、彼らのその問いに対する思考停止への疑問もーそれは、そもそもの幸福のイメージが極めて漠然としており、その本質が主観的なものであるにもかかわらず、いやむしろそれが漠然としているからこそ引きおこされるものである。そしてその隠蔽が故に、物的充足が幸福へと繋がるという非合理がカルト的に盲信されているとも言える。

内田樹は「商材としての情報は他の誰かが本来得るべきであったモノを先回りして掠め取ることで価値を持つ」と言っていた。上で引いた19世紀の箴言現代社会へとアプライすれば、確かにこのような帰結が生まれるだろう。我々の生きる社会がこのような下部構造を持つ限り、「勝ち組/負け組」と言う表現が幅を利かせるのもむべなるかなと思う。ー当たり前のことだが、配られたチップが無限でない以上、勝ちはその分の負けによって贖われるのだ。すなわち、財産の獲得は、常に勝ち負けに置換される

余談だが、電車で「一瞬で年収00万!」と言った広告を目にする。使い古されたフレーズだが、ここには注意すべき警鐘が潜んでいるように感じる。前述のとおり、特定の経済システムにおいて、勝ちの取り分は一寸違わず負けの損失によって贖われる。非常識な勝ちはその分の非常識な負けなくしてあり得ないのである。何も非常識な負けを被った不運な人々を想えという倫理的な話がしたいわけではない。非常識な勝ちは場のルールを少なからず逸脱する。正統なプロセス無くして勝ち分を得られるということは、正統なプロセス無くして負けへと転落する可能性を恐れる必要があるということでもある。そして、均衡の崩壊は、チップの多寡という極めて一義的な幸福の指標すらも、容易にシフトさせてしまう危険を孕んでいるのではないだろうか

話を戻そう。資源が有限であるというフィールドにおいて、勝ちがその分の負けによって贖われることで均衡は保たれる。全員が「勝ち組」になることは不可能だ。では「負け組」はどのようにして幸福を得ることができるか。それは「勝ち組/負け組」という対立項をズラすことによってのみ可能である。但し、あらゆる要素を相対化し、絶えず競争のドグマを植え付けてくる社会において、一筋のコンプレックスも感じること無く清貧を享受することは非常に困難ではある。

とはいえ、一方で勝ち組/負け組といった物的な指標がいつまでも存立するか、あるいは個人が人生をすべてそこに注ぎ込むに値するほど確かなものとして在り続けるかは疑問視すべきだろう。なぜなら「勝ち負け」という表現は、任意の一時点における諸項の比較に過ぎず、要は叙述でしかないのである。つまり今勝ち馬に乗っていることが将来においても勝ち続ける保証にはならないし、逆に言えば、何も考えず、何もせずとも知らぬ間に勝ち馬に乗っている状態というのも大いに有り得るわけだ。例えば、日本に生まれた以上生活水準がラオスよりも高くなるのは必然だが、それを「勝ち組」と形容したり、まして自分が優れた人間だから生活水準が高いなどとゆめゆめ思わないだろう。しかし、往々にして我々は、出自の違いを能力の多寡と取り違える傾向にあるわけで、ややもすれば現状に甘んじるあまり成長の本質を見誤る可能性もある。それならば意識の上では「負け組」と思っていたほうが反骨精神が生まれて良いかもしれないが、同じく自らの状態を同定できていないという点ではどちらもスマートとは言えない。そうなると、どちらにしろ勝ち負け以外の水準でもって自らの能力を認識していなければ、手にした財産すら容易に失われてゆくことになる。兎にも角にも、物的充足が加速度的に困難を極めつつあるこの世相を見てもあきらかなように、この一義的な対立項への盲信は決して勝ち目ではないと僕は感じている。
群れ全体が旧時代的な価値観のもと、場当たり的な猛進を続けている場合、そこに身をおくことはギャンブルだ。しかし、幸福の指標は人の数だけ存在する。運良く勝ち馬に乗り、物的に満たされた生活を享受することで幸福を得られるというのなら、それを否定することは誰にもできない。「勝ち組/負け組」という言葉の下、他者との相対化においてしか幸福を感じることができないとしても、それが当人にとっての幸福であるなら非難はできないだろう。しかしながら、逆もまた真なりであり、運悪く負けを引いてしまった人々、引かざるを得なかった人々、あるいは自分とは異なる価値観の下、その人にとっての幸福を享受すべく邁進する人々を笑う事はできないだろう。そのような発想に至るまでの論の不徹底さ、あるいは場当たり的且つ進化論的な直感は自覚されてしかるべきだ。

大まかに僕の疑問をまとめると次の二点に尽きる。

  1. 「勝ち組/負け組」という指標は、果たして本当に幸福なるものを反映しているのか。
  2. 「勝ち組/負け組」という指標がこの先も個人の人生、あるいは社会においてヘゲモニーを保持し続けるのであろうか。

 

最後に、僕はこの幸福と財の関係についての問題が人文科学の問題に通ずると考えているが、ここでは深く取り上げることはしない。とりあえず「構造と力」の序文には、早くもこういった問題に対する人文主義の葛藤が現れている、というところを引いておくに留める。