Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

内田樹先生について思うこと

 

日々ツイッター安倍政権批判を続ける内田樹先生。僕の身の回りにもファンは多い。かくいう僕も、レヴィナス研究家である氏の翻訳を読んだことがきっかけで彼のメディア活動を知り、一年半ほど前は彼のブログの記事を片っ端から読みあさっていた。

ただ、当時から一貫して氏の言説に対して抱く感想は「論理的に妥当だと言えるけど、身も蓋もない」というところであった。例えば、僕が一番最初に読んだ記事が就活に関するインタビューであった。氏は自身の「就職活動」を振り返って次のように述べる。

僕は就活なんてしてません。僕の学生時代は学生運動のさなかでしたから、みんな長髪で、ヘルメットをかぶって、棒を振り回していた。そう言っていた連中が4年生になったら急に髪を刈って七三分けにして、スーツ姿で就職活動を始めた。
『お前ら、革命はどうしたんだよ』って思うじゃないですか。
仮にも革命性があるとかないとかいう理由で他の学生を罵倒したり、殴ったりしてきた連中が、『やはり東大卒の肩書きは活用しないと』と言って『ウチダも、もっと大人になれ』なんて説教してくるわけですから、僕だって怒りますよ。
僕は我慢ということができない人間なので、卒業するまで髪はずっとライオンみたいに伸ばしたままで、汚れたジーンズにアーミージャケットという格好で過ごしました。
そのまま卒業即ルンペン。2年間は“プータロー”でした。
でも、翻訳の下訳したり、ラジオドラマの台本書いたり、家庭教師をしたり、友だちが持ち込む仕事だけでけっこう愉快に過ごしていました。

彼は「就活なんか、するな。卒業するまでは大学生として大学での活動に全力を尽くし、卒業してから、その先のことは考えなさい」と言うが、現実の社会構造を鑑みるに、個人レベルでその活動に身を投じることがスマートであるとはあまり思えない。なぜなら、大学生はみな氏のように才能と才覚に優れた人間ではないからだ。

たしかに多くの場合に『群れと行動を共にする』というのは安全な生存戦略です。
でも、ときには群れそのものがリスクの高いふるまいをするということもある。群れから離れた方が生き延びる確率が高いということもある。

個人個人が自らの生き方や、与えられている状況に対して自覚的であるということは生存において非常に重要な要因であり、時としてそれは既存の常識を逸脱する。その場合、効用を論理的に比較衡量し、必要であればマジョリティから身を引くという態度を取ることが求められる。この点に関しては僕も同意する。

であるが故に、氏の提案する生き方を実践するためには、恵まれた資質とそれを自覚する能力、そして論理的思考でもってどのように立ち振る舞うことが自身の幸福を最大化するかを判断し実行する態度が必要だろう。

 

ツイッターやブログを見ると、思ったより氏に対し批判的な人は多いようだ。

ask.fm

 僕も最近は概ね同じことを思う。氏の言説はどこか「〜すべし」という論調に基いており、その行き着く先は「被災地ボランティア」や「政権批判」である。そのベクトルが個人の幸福と同じであるかは疑問だ。もちろんそれらを否定するつもりは無いし、政治に参画する人々にとってそれが幸福であるなら望ましいことなのだろう。とはいえ、氏の言う生き方を実践し、マジョリティに阿る生き方をしないことによって、さらに幸福から疎外される人の方が多いとさえ僕は思う。そうすると総論的な論理的一貫性も少し怪しくなってくる。休学する学生に対するアドヴァイスはグローバル社会や政権批判ではなく、どのように考え、立ち振る舞うことが学生にとって有益であるか、にもとづいていなければならない。

僕自身は、妥当安倍政権のためになにかアクションを起こすことはおそらく無いので、氏の言説についてはこれからも各論の分析力や論理的妥当性を拾い集めるに留まるだろうなと思っている。とりあえずフォローは外した。