Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

師匠シリーズが映画化するそうで

「いいえ、幻よ。もうこの世にはいない。でも、あなたはそれを見る」
先生の目が、吸い込まれそうに深く沈んだような輝きで僕の目を捉える。
「あなたは、誰にも見えない不思議なものを見るのよ。これからもずっと。
 それはきっと、あなたの人生を惑わせる」
唇がゆっくりと動く。滑らかに、妖しく。
「それでも、どうか目を閉じないで。晴れの着物を見てもらえて嬉しかった。
 そんなささやかな思いが、救われないはずの魂を救うことがあるのかも知れない」

 ー師匠シリーズ「先生」より

 

 

洒落怖で長らく執筆されてきた師匠シリーズも、近頃メディアミックスの話がにわかに持ち上がり出し、ついに来年には映画化されるそうだ。あまり期待はしていない。それは僕がオカルトに対して求めるものに拠るのだろう。

元来、僕はオカルト好きだが、その関心の幅はかなり狭い。基本的に死者の現れを受け入れた上で、それをどう受け止めるか、という描写が豊かな作品が好きで、逆に言えばそれが無い物語はそれほど好きではない。要するに、DQNが肝試しをしたら怖い目にあった、という一話完結型のストーリーに面白みは感じないし、死者がペラペラと都合の良い情報を教えてくれる降霊術は本来の意味で冒涜的とさえ思える。

哲学には現象学という領野がある。例えば目の前にあるコップが客観的に存在しているかどうかについて、人は決して確信を持つことができない。では確実に言えることはなんだろうか。意識に対して「コップ」が現れているという事象は確かに言えるのではないだろうか。簡単にいえばこのような態度を下に、あらゆる学問に優る厳密さを哲学にもたらす試みが現象学の課題だ。

僕はオカルトもこの現象学の範疇にあるのではないかと考えている。すなわち、コップとは違ってもはや客観的な存在を前提していない幽霊は、意識に対して現れてくるという在り方によって先鋭化された事象だと言える。そうであるなら、幽霊との向き合いとはまずもって、自らの身体性、あるいは第六感との向き合いでなければならないだろう。例えば師匠シリーズには「死者は眼鏡を外してもはっきりと見える」という設定があるが、これは死者の現象の特殊性をよく見据えた描写である。当然、常日頃から死者を見る人間でなければその現象について考えることはできないだろう。

 

師匠シリーズ 1 師事 (ヤングキングコミックス)

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とりあえず漫画化された作品を読んでみたが、キャラクターの個性とネタの斬新さが強調されるあまり、原作者がオカルトをどのように扱おうとしているかが取り違えられているように見えた。

 

リング [DVD]

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死と彼女とぼく(1)

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 もちろん、漫画や映画がそのような表現に必ずしも適さないというわけではない。「死と彼女とぼく」は死者のいる日常に人生を惑わされながらも、それと向き合う主人公の在り方を見事に描いている。

とはいえ、漫画やアニメで「リング」を表現することが、不可能とは言わないまでも難しいであろうと予想がつくように、師匠シリーズも容易なシネマライズに耐えうるような雑多な構造を持ってはいないように思える。どうやらアニメ化に近い形態を取るそうだが、やはり漫画と同じ轍を踏まないか危惧している。ジャパニーズホラー路線で作るならまだ親和性があるように思えるが。