Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

kamikaze


フランスで起きた同時多発テロ事件を受け、現地の各メディアはさかんに報道活動を行っているが、フランスでは一昔前から自爆テロ「kamikaze」と表現している。実際、Le mondeのホームページで「kamikaze」と検索すると今回の件に関する記事がいくつか引っかかる。
これに対し、神風特攻隊の関係者が憤りを見せているらしい。すなわち、史実としての神風特攻隊は自爆テロと目的・形態・思想を異にするものであり同一視するのは「侮辱」である、という主張だ。
確かに、神風特攻隊は戦争行為における敵対する武装集団同士の戦闘であるため、無関係の民間人を標的とする今回の自爆テロはもとより、一般的なテロリズムと意味合いが全く異なるため、言葉の誤用という観点からは、彼らの主張は正しいと言える。問題はその誤用が「侮辱」として非難されるかどうかであろう。
ふつごぽんの中の人はこの主張を受けてサボタージュの意味を知る日本人がいるか」と言及している。元来サボタージュsabotage」という名詞はフランスにおいて、怠業を目的として機械を破壊する行為を指した。日本語では「サボる」という動詞と化しており、怠慢から休む行為一般を指すに至っている。昔なら「エスケープ」という言葉が一般的だったのではないだろうか。しかし、もしも神風特攻隊の生き残りの人々の主張が論理的に正しいとすれば、フランスから労働争議に殉じた人々を侮辱しているため、サボるという言葉を用いないでくれ」と言われたら、彼らは従わねばならないだろう。外来語が非常に多い日本語において、類似した例は枚挙にいとまがない。

とはいえ、それはあくまで一方的な禁止の要求である。フランスに留学していた学生からも話を聞いたが、そもそもフランス人は「kamikaze」という言葉が神風特攻隊を意味していることを知らない。それどころかアラブ由来の言葉だと思っている人も多いそうだ。
つまり、「kamikaze」がどのような語源を持つかをフランス人が認識したとき、彼らがその語を使い続けるかどうかを見て、はじめて彼らの価値観を検討できる状態にあるといえるはずだ。例えば、日本人ならホロコーストがヨーロッパでどのような意味を持つか十全に理解している。語感に敏感な人間なら虐殺行為を全てホロコーストとは呼ばないだろう。たとえ日本語でホロコーストが虐殺行為一般を指したとしても、である。ただし、それはあくまで個人の歴史観・言語観の問題である。先のシャルリーエブドの件で露呈したとおり、表現の自由をことさらに強調するフランスであるが、当然「kamikaze」の語源を知っており、この語の使用を避けようと思えば避けることのできるle mondeをはじめとする各メディアも、その主義に阿っているのだろうか。
しかしながら、それすらもかなり個人的な問題であって、内心の自由の観点からみても、フランス人がフランス語でどのような言葉を使おうと、それを他国(の人間)が非難できるわけではない。フランス人が日本で生活しながら「神風特攻隊」と「自爆テロ」を混同しているのなら、それは非難されるべきかもしれないが。
歴史観について言及したが、しかしながらフランス(ヨーロッパ)における歴史教育は、カリキュラムを見る限り「ヨーロッパ史+α」である。一応は先進国である日本の歴史すら、ほぼ全くと言って良いほど彼らは知らないし、多くの民間人が犠牲になったという観点から、どちらかと言えば第一次世界大戦が重大視される向きがあるそうだ。今回の出来事と彼らの歴史認識を直接に結びつけるのは早計かもしれないが、フランスにおける歴史教育がより世界的な視点にたったものであったとしたら、果たして今回のような事態が起こり得たかは分からない。ヨーロッパの歴史教育についてはいずれ現地の教科書を入手して仔細に検証したい。

ミスについて

信頼を獲得するには以下の2つを守るようにすべし、とどこかで見たことがある。

  • 大きなミスはしない
  • 小さなミスは即座にリカバーする

僕もこの考えに概ね同意するが、これに加えて「ミスの頻度」を勘定に入れる必要があるように思う。つまり、同じ仕事を目の当たりにして、そもそものミスの頻度が多ければ、その大小にかかわらず信頼を壊す要因足りうる。いかにミスを失くすかは信頼関係を築く上で最も重要な点の一つであろう。

しかしながら、ミスの量が個人の資質に依拠するとすれば、ミスを失くすために割かねばならないリソースも個人差がある。同じ練習量でも人によってライブでのミスの量には差がでるだろう。例えば僕は忘れ物をよくする。人一倍気をつけてようやく人並み程度だ。時間は有限なので、人と同じ量だけミスに気を使っていては、いつまで経っても特定のアクティビティの進歩にはつながらないかもしれない。

とはいえ、それは一対一対応で問題解決を行うことを想定した場合だ。ミスをする事故の性質を根本から変えること、つまり人間性を変革することはミスの減少に繋がるだろう。僕の場合、なぜ忘れ物をするかを掘り下げていくと、「詰めの甘さ」が露呈する。すなわち、10%のリスクを0%に近づける努力を怠る傾向にある。出かけたあとに鍵の締め忘れを今一度確かめたり、レジュメを切ったあとに誤字脱字を確認しなかったり、といったものである。

結果を見ればミスを失くすべく行わなければならない事柄に変わりはない。要するに面倒くさがらず、画竜点睛を欠かないよう心がけることが重要なのだが、音楽を例にとってみれば、ライブで百発百中の演奏ができないフレーズがあるということは、結局のところ基礎的な練習が足りないということに還元されるのかもしれない。それが人並み程度の練習量で確保できないのであれば、愚直に人間性を練磨しつつディシプリンに取り組む他はないように思う。

コストパフォーマンス

随分前の草稿だ。

 

-------------

僕が大学院に進学したとき、「もっと勉強したい気持ちもあるけど、ウチはお金が無いから院進学はちょっと、、、」という声を度々耳にした。もちろん、金銭以外の理由があってのエクスキューズなのかもしれない。しかしながら、もし金銭だけがネックになっているのであれば、長期的な効用を考慮した上で人生の選択を考慮すべきだろう。

僕らの周りにはコストパフォーマンスという言葉(しばしばそれは機会費用と混同される)と、それを基準とした意思決定があふれている。しかしながら、実際にコストとパフォーマンスを正しく算出し、その合理性に沿った行動をしている人間は少ない。例えば院進学に機会費用を含むコストの話を持ち込む人は、死んでも怠惰による留年をしてはいけない。入学時に生協で20万もするパソコンを買う人は、Macbookを金持ちの道楽だと言えた義理ではない。文学部を人生の墓場だと言う人は、何を投げ打ってでも優良企業に就職すべきだろう。しかし、世の中はその反対の運動で満ちている。実際には、怠惰故に留年し、使いもしないオプションソフトを大量に詰んだパソコンを購入し、文学部生とさして変わらない企業に就職する人々は数多く存在する。

何故か?それは情報処理能力が十全に発達していなければ、肝心のコストパフォーマンスも、それ以前の「自分にとって何が投資になるか」、「何が自分の目標とするところか」も不明瞭のままだからだ。その場合、実際に留年してみなければ一年の重み、学費、学業にどれだけ打ち込まなければならなかったか、といった情報に直面できない。情報がなければ判断力も行使できない。つまり、選択肢を前に悩む人は、往々にしてグレーゾーンの判断ができずに悩むわけで、クリティカルな状況に追い込まれない限りトライ&エラーすらできない。

 

『フラット化する世界』考

ジムに行く日は必ずエアロバイクを使って運動する。概ね一時間ほど漕ぎ続けるわけだが、なんの視覚的刺激もなしにひたすら単調な運動をするのはしんどいので、以前はiPadで動画を見ていた。見ている動画は概ねディスカバリー・チャンネルやナショナルジオグラフィックのドキュメンタリーが中心だった。

僕はテレビをほとんど見ない。娯楽としての側面は完全にパソコンに敗北しているし、情報収集のツールとしてもそうだ。テレビのメディアとしての優位性は、わかりやすく受動的に視覚情報を得られること、もしくは番組単位での動画芸術を享受できることに尽きる。前者はニュース、教養番組、後者はアニメや映画、歴史的動画、撮影技術を駆使した映像が該当する。日本の民放で現代において作成されている番組の質は著しく低いので、民放のニュースや深夜アニメは見ない。同様に、日本の民放に教養番組は存在しないので、必然的にケーブルテレビを利用することになる。つまり外国の良質なドキュメンタリーや知識人向けのニュース、あるいは再放送番組をそのまま見たほうが手っ取り早いわけだ。

ただし、上に挙げたチャンネルのドキュメンタリーが押しなべて高レベルかといえばそうとも限らない。せいぜい大学一年生向けのガイダンス的な講義を動画で再現した程度の内容であるので、高度な専門性を備えた番組は少ない。そうすると、その情報自体に価値は認められない。知りたい情報があるのなら、ウィキペディアの方が少ない情報でまとめられているだろう。

よって、見るべきものといえばプラネット・アースのような決して目にすることのできない光景を集めたフィルムや、映像の世紀のような歴史的光景を映した動画に限られてしまう。

しかしこうした映像作品や、アニメや映画を見るのは体力を使うため、体力トレーニングであるエアロバイクと競合してしまう。いちいち動画をiPadにいれるのも面倒だ、というわけで、最近は平易な文体の新書を読むようにしている。

 

----------

 

前置きが非常に長くなったが、先日そのようにして読んだ本が、10年ほど前にベストセラーになった『フラット化する世界』だったのだ。

上下巻で相当な分量があるので、論点を追うことができれば後は家でゆっくり読めばよいと思っていたが、結局100頁ほどで断念してしまった。理由は単純で、最初の100頁ほどでもうすでに筆者の言いたいことが十二分に伝わってきたし、それをこれ以上読み深める必要もないだろうと思ったからだ。

本書では技術革新に伴うグローバリゼーションによってアウトソーシングなどが一般化し、その結果労働市場における参入障壁が下がり、世界中の人々の立ち位置がフラットになるという論が展開されている。筆者はこの状況に対して概ね好意的な視点を向けつつ、先進国の人間に対して、先進国の仕事は新興国に奪われるだろうから、来たるべきフラットな世界に備えよと警鐘を鳴らしている。以上が本書の大まかな主題だろう。

僕がこの主題に対して抱く疑問は次の二点である。一つは「本当に世界はフラット化しているのか」というものと、もう一つは「その警鐘は果たして誰に向けて鳴らされているのだろうか」というものだ。

主にIT革命を中心にグローバル化が進み、中国やインドの人材が労働市場に参入してきたのは紛れも無い事実だ。筆者が本書で挙げているように、コールセンターの仕事がインドにアウトソーシングされる事態も起きているのだろう。

一方で、グローバル化の言説には往々にして「中国やインドの人材は優秀でコストがかからない」という神話が存在するように思える。昨今、ようやくチャイナリスクが叫ばれるようになったが、先進国と新興国の文化障壁は経済学的な思考が想定している以上のものだと僕は常々考えてきた。いずれ移民に関しても詳しく書くつもりだが、過度なグローバル化による異文化同士の摩擦は膨大なコストとして顕在化している。要するに、文化障壁など因果関係の可視化が難しいデータは往々にして捨象されてしまう傾向にあるが、そうした「潜在的な」コストはアウトソーシングを行うには割にあわないほどに膨大なものであると僕は思うのである。

また、新興国が先進国並みの経済成長を遂げたら、そこでの生活も一変するだろう。今現在安い人件費で中国やインドの人材を雇用しているのは、単純に言えば搾取にほかならない。彼らは先進国では考えられない生活水準にいるために、先進国以下の給与を相対的に有難がって受け入れているにすぎない。

よって、彼らの技術や生活水準が向上すれば、彼らはおそらく先進国並みの給与水準を要求してくるに違いない。いくらインドの物価が安かろうと、インドに行けばiPadが1000円で買えるわけではないだろう。

以上の点から、新興国に対してアウトソーシングを行うメリットは次の場合においてのみあると言える。現時点では安く済む時限性の人材を確保するか、もしくは従業員に対して労働力の対価として賃金を支払い、消費の欲求をドライブさせ、自社製品を高く売りつけさらに搾取するという、俗にいうプア・ビジネスの構図を選択するかのどちらかだ。そしてそれらはどちらも一時的なものにすぎず、はやくもそのリスクは立ち現われ、日系企業が相次いで新興国から撤退する昨今の事態につながっている。

また、フラット化する「世界」とはなにかを考えなければならないだろう。本書の冒頭で取り上げられた人々はいずれも、上昇志向に取り憑かれた新興国のエリートたちだ。大多数の中国人、インド人は未だフラット化されずにいる。

僕がもし世界の人々の立ち位置を分類するのであれば、三層に分ける。一つは未だフラット化されていない世界の大多数の人々、一つは本書が「世界のフラット化」と呼ぶ、極めて一部分の人々(先進国の中間層、新興国のエリート)、そして最後は、そうした優秀ながらも資本を生み出すための手段にアクセスできずにいる人々を救い上げ、同じフラットな土俵に持ち上げて搾取の対象とする「資本家」である。本書はこうした経済学的な「フラット化」ができない部分について語ることができておらず、またその部分こそ、本書の主張を尽き崩しかねない「落とし穴」であるように僕は思う。

では続いて、第二の問いに移る。確かに、新興国のサラリーマンにとって、自分の仕事がアウトソーシングされ、競争に投げ込まれることは恐怖であろう。しかしながら、資本を生み出す手段が資本そのものであれ情報であれ、それにアクセスできなければ彼らはいつまでたっても中間層にとどまり続けるわけで、状況は変わらないのである。単純に言えば、本書を読んで初めて危機感を抱いているようでは、そうした被支配的な現状に気づかないほうがマシではないだろうか。なぜなら、本書で述べられている構造およびその問題点はエコノミストどころか、経済の素人であっても世界史を踏まえていればある程度想定可能なものであるからだ。僕だって、2015年になって実体経済を見てから初めて「アウトソーシングによって先進国の中間層が逼迫してないじゃないか」と批判しているわけでは全くない。本書が発売された当時の状況で本書を読んだとしても結論は変わらなかったはずだ。

そうすると、本書の役割は一体なんであろうかと思わざるを得ない。大衆の危機を一時的に煽りながら世に浸透していくのはベストセラーの常だ。ノストラダムスの大予言はまさにその典型であろう。

 アマゾンでは星5つの評価がずらりと並んでいたが、僕が本書に与える星はせいぜい3つ程度だ。もし読んだのが十年前だったとしてもそれは変わらない。

非運動系の身体

就活が終わってから一ヶ月半、週3回ペースでトレーニングジムに通い、筋トレと有酸素運動を続けている。まだ一ヶ月なのであまり数値上の変化はないが、初心者にとっての運動の難しさがいくつか見えてきたように思う。総じて言えば、未だ運動に適した身体になっていない。すなわち、筋トレをするのにも、余計な箇所や不足した箇所が適切なフォームでのアクティビティを阻害するのである。

一つ目は柔軟性。二つ目は体脂肪。三つ目は筋肉量だ。柔軟性がなかったり、余計な脂肪がついていれば適切なフォームをとることができずに余計な負荷がかかる。あるいは狙った箇所の筋肉に負荷をかけられない。筋肉量の絶対値が足りなければ、チェストプレスやスクワットのように複合的に筋肉を鍛える種目が十分な重量で行えなくなる。

いずれにしても筋トレと有酸素運動で対処できると踏んでいるのだが、中でも柔軟性は致命的に足りないのでストレッチを日課にするよう心がけようと思っている。とりあえずは来月の体組成測定の結果次第だ。