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Excès, et Marges.

「余白への書き込み」

 

世の百合漫画市場も相当に賑わっているそうだが、こういったリストを見るとその理由がわかる。

簡単に言えばpixivで活動していた同人作家が商業誌に引き抜かれ始めたからである。pixivやtwitterで評価が確立されている作家を早く引き抜き土俵を移させた方が、実力ある同人作家が持ち込みをしてくるのを待つよりパフォーマンスが良いということに出版社も気づいたのだろう。

そのことについてこのエントリで論うことはしないが、上のリストを見ると、たった30程度のランキングの少なくない数がpixivで見たことのある名前で占められている。

つまり、俗に言う百合漫画の一ジャンルがpixivの文化によって形成されているわけだ。

では、いわゆるGLという既存のジャンルと、pixivにおける百合の峻別はいかようになされるか。僕はその一つに「同性愛を過剰に意識させるか」、もっと言えば「従来のGL的なカルチャーを踏襲しているか」というところにあるのではないかと思う。僕自身GLに詳しいわけではないのだが。

簡単に言えば異性愛(者)がマジョリティの社会で同性愛が立ち振る舞ってきた所作が、大部分の場合pixivの漫画ではぬけおちている。元々が女性キャラで占められた作品の二次創作である場合が多いため、同性愛自体への背徳感や葛藤がそれほどフィーチャーされない。これは創作の目的にも還元される差異かもしれない。つまりは、同性愛を書きたいか、好きな作品の二次創作を書きたいか、という違いである。

 

秋★枝さんはこうしたネット型の同人作家から商業に移行した先駆であり、優れた作家だ。いまの連載作品に「恋は光」という作品がある。

恋は光 1 (ヤングジャンプコミックスDIGITAL)
 

 

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 この作家は恋愛よりも広義の意味での「好き」という感情を描くのに長けている。このシーンは登場人物が「恋とは何か」を探求し、世にある恋愛作品を手当たり次第見た時の感想だ。

これは登場人物の感想であるが、いわゆる恋愛作品の特性をよく捉えているように思う。見方を変えれば、恋愛というシチュエーションが先行するあまり、登場人物の精神の機微がそこに囚われてしまっている事態があるように思うのである。

ここで上に挙げた百合漫画の峻別に立ち戻る。要するに、同性愛にしろ異性愛にしろ、恋愛というシチュエーションを描くという目的が先行してしまうあまり、個人の感情がフィーチャーされない作品が多いのが、恋愛漫画の実情なのではないか。

それの良し悪しを判断することは難しいが、実存を重視する僕としては、個人の「好き」という感情が特定のセクシャリティによってカテゴライズされることを好ましく思うことができない。簡単にいえば、個人が個人に対して好意を寄せるのにゲイもノンケもなく、それは社会的枠組みにおいて事後的に発生し、規定してくるものに過ぎないと思うのである。

だからこそ、恋愛というシチュエーションではなくキャラクターが先行するpixiv的二次創作文化は面白く思えるし、一つのジャンルとして在って欲しいと思う今日この頃である。もちろん、異性愛であっても下記のような描写ができる漫画があるのならそれはそれで一向に構わないのではあるが。

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飢えた子供をまえに

ノーベル賞を期に、俄に「基礎科学は役に立つか」という議論がなされている。これに際して3年前に書いた記事を再掲する。

 

 

宇宙兄弟を読んだ。好みではないが面白い作品だ。その中で一つ気になるシーンがあった。

JAXAの試験を受ける主人公たちにある課題が出される。それは、ある女性コメンテーターに抗議文をだすなら何と書くかという課題だ。
彼女は言う。「宇宙開発には莫大な金がかかり、それは我々国民の税金で贖われている。その割に結果は芳しくない。そのような事に使う前に、我々には解決すべき課題が山積みなのだから、そっちに金を費やすべきではないか。」と。
この漫画で知らされるまでもなく、宇宙開発には昔からこのような批判が為されてきた。宇宙開発の規模が桁違いなだけで、問題の本質はあらゆる学問に言えるだろう。もちろん、人文科学だってしょっちゅう槍玉に挙げられる。
「 飢えて死ぬ子供の前で文学は有効か。」と、かつてサルトルは投げかけた。僕はいつも思う。有効、意味、それらの定義とはなんだろうか?人間の生まれてから死ぬまでのアクティビティすべてに、本質的な差異はあるだろうか?と。
例えば、宇宙開発を辞めてその金額をアフリカの恵まれない人々に寄付したとする。そもそも、ここでいう「恵まれない」とは、我々先進国の価値基準に則ったものであり、かつての侵略者が自己の利益のために彼らの生活世界を市場化しなければ、彼らが「劣っている」と判別されることはなかったはずだ。
押しなべて発展途上国とは「西欧的社会」以外の国を指す。グローバル化と言えば聞こえは良いが、それは市場的な西欧社会による世界統一が為されたことを意味する。すなわち、発展途上国にいくら金銭的な施しを与えようと、彼らの生活水準が先進国を上回ることはないし、この侵略的構造を知らずに資本主義化が発展することにより、一層狡猾な格差が潜在することになると言えるだろう。これは既にボードリヤールが示唆したとおりであるが。
思考の多様性がここまで進展してしまった以上、万人に対して有効な言説は不可能かもしれないのだ。こうして実利的な観点から見たところでも、かたやGPSを開発し、先進国に多大な恩恵をもたらした宇宙開発と、かたや未だに碌な成果をあげないODA、果たしてどちらに「正義」はありや、と考えさせられる。合理的なことを言えば、宇宙船地球号として人間が地球に最も貢献できるエコロジーは死だ。
飢えて死ぬ子供たちを直接的に救うことは、学者のすべき仕事ではないとさえ、僕は思う。
あらゆる学問は役に立つ人には役に立ち、役に立たない人には役に立たないのだ。しかし、ただひとつ言えることは、その恩恵が宇宙開発にしろ、人文科学にしろ、確実に万人に寄与しているということである。
各々にとっての環境、生活世界というものが各人には存在し、それは驚くほどに狭い。各人にとってのそれをより良い物へと発展させることが限界なのではないか。
PS:どちらにせよ、ヒトという種のエゴイスムを無視した議論は危険だと思う。

 

三ヶ月でTOEICのスコアを100点アップして800点オーバーしたので勉強法をまとめてみる①

会社の英語教育でTOEICを受けました。とりあえず「3ヶ月で800点オーバー」を目標にし、無事達成したので勉強法・思ったことについて書こうかと思います。

結果は以下のとおりです。

 

4月:L340/R350 T690
7月:L395/R430 T825

 

800点オーバーのためにやるべきこと

 

1.目標を設定する

TOEICはあくまで試験ですので、試験対策を講じて一定の期間内に800点オーバーを狙うという前提で話を進めます。その際重要なのは、目標を明確に定めることです。1点でも高いスコアを狙いたいという考えで戦略をたてると、勉強しなければならない項目が無限に増えます。たとえば800点を狙うのであれば、800点前後のスコアをとるために必要最低限の勉強に集中すべきでしょう。

では800点をとるためには具体的にどのようにすればよいか。TOEICの問題数は200問ですので、単純計算で160問程度の正解が必要です。一般にTOEICのスコアはリスニングセクションの正答率が高くなる傾向にあるそうですが、大体800点前後からリスニングセクションとリーディングセクションの正答率は拮抗し始めます。そのため、リーディング80問、リスニング80問の正答率を目ざすことを目標に据えるのが正攻法ではないかと考えられます。

 

2.現状を分析する

次に、目標スコアと今の自分のスコアがどれくらい離れているかを分析します。そのため、TOEICの勉強をはじめるにあたってまずすべきは、公式のテストを一度受験する、もしくは模試を受けることです。

というのも、自分の英語能力がどのような傾向にあるかを知らなければ、何をどれだけ勉強しなければならないかもわかりません。よく「TOEIC800オーバーに必要な勉強時間」というようなエントリを見かけますが、たとえ現状が同じ600点であろうと、個人が英語学習に費やしてきた時間や勉強法によって得点の分布はさまざまですので、こういった数値はあくまで参考程度に留めることをおすすめします。なお、個人的に重要だと感じるのは単純な勉強時間の総数というよりもむしろどれだけコンスタントに勉強を積み重ねることができるかというところですので、30分でも良いので決まった時間を確保し愚直に継続するほうが能力の向上に繋がるのではないかなと思います。

例えば私の場合、4月に受けたTOEICのスコアが690点で、リスニング340点、リーディング350点でした*1

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上の図はTOEIC公式サイトで公表されているTOEICの平均点です。リスニングが平均点と大差ないにもかかわらずトータルで100点ほどアドバンテージがあるということは、英語能力がリーディングに偏っていることを意味しています*2。詳しくは後に書きますが、800点オーバーのために私はリスニングにある程度重点を置いた対策を行いました。

 

3.勉強計画をたてる

次に自分に合った勉強の計画をたてます。まずは、目標正答率のために何をどれだけ勉強するのかを考えます。

おおざっぱにいって、TOEICで650点程度を獲得できていない人はリスニングかリーディングのどちらかの基礎的な部分に問題がある可能性が高いです。

たとえばリーディングセクションで320点前後に達していない場合、おそらく高校レベルの文法・構文の理解、長文読解能力に問題がある可能性が高いので、高校で用いた文法書を使って復習をしたほうが良いでしょう(時間がなければ間違えた問題を中心に精読するなどでも良いと思います)。ですので、私の感覚では700点までは精読など、Part7の対策に充てることが望ましいのではないかと思います。

逆に私のように、700点以下の得点でありながらリスニングセクションの得点がリーディングセクションよりも低い場合、英語を英語として理解する、あるいは英語の発音を聞くことに耳が慣れていない可能性があります。その場合、まずは英語を聞くことを重視する必要があります。
こうした基礎的な勉強に半月から1ヶ月を割くことは無駄にはならないと私は考えます。というのも800点以上を目ざすのであれば、基礎的な文法事項や読解につまづいてはいられないですし、土台が固まっていないままに応用的な事項を勉強しても定着しないからです。

一方で、どちらかのセクションで基礎的な目標をクリアしている場合は、そのセクションではいかに点数を積み上げるかが問題になってきます。そのためには、各パートの正答率を見て、どのような問題に間違いが集中しているかを判断する必要があります。これはTOEICの公式スコアでは分からないので、どうしても模試を受ける必要があります。

なお、どちらも同程度に足りない場合、優先すべきはリーディングだと私は考えています。文法構造が理解できていないままにリスニングの対策を行っても結局は英語の内容を理解することができないためです。まずは時間をかけても良いので一文一文を精読できるようにしてから耳で聞くことに慣れていく、という順番が望ましいと思います。詳しくはシャドウイングの解説で書きます。

具体的に私が行った勉強の記録については次回に譲ります。

*1:TOEICは相対値によってスコアを算出しますので、回によって200点ほどのバラつきが出ます。しかしながら、800点代を超えたあたりから問題になるのはミスの数です(例えば満点をとるならどのような問題にしろパーフェクトに近い正答率が必要でしょう)ので、模試に関しては単純に一問5点換算で良いかと思います。

*2:私は大学受験に関しては私大専願だったので、英語の長文読解に関しては人並み以上に勉強していました。そのため基本的な構文理解には問題ありませんでした。逆にリスニングはほぼ全く対策しなかったため偏った英語力になっていました。また単純な文法の択一問題も苦手です。ちなみにその半年ほど前に受けた準一級はリーディング・ライティングで及第だったもののリスニングが壊滅的だったために不合格でした。

バカロレアに見る小論文作成術・後編

模範解答

 

 序論

平等によって自由が脅かされるかどうかを問うことは、平等が自由を侵害し得るかどうか、また反対に、ある不平等が自由を助長し得るかどうかを問うことである。

 一般的に、フランス共和国の標語*1に見られるように、われわれはこれら2つの観念を結びつける傾向にある。あるいは1789年人権宣言においては、人間が生まれ生存するところの身分の平等と自由がうたわれている。

しかし「平等」という言葉からは何が読み取れるだろうか。「平等l'égalité」とはまずもって数学用語であり、等価関係、あるいは二項の置換を意味するものである。「平等l'égalité」「同一性l'identité」は区別され得る。同等の二項は必ずしも相似ではないからである。「平等」は同様に、各個人が同じ仕方で見られるべきであるというところの「政治的原則principe politIque」を意味する。法の下の平等l'égalite des droits」、すなわち「万人の有する平等な尊厳」という観念に基づく、「法の下の万人の平等」と、「条件の平等l'égalite des conditions」、すなわち「手段の平等」や、「生活環境の平等」を区別することができる。

「脅威menace」とは、ある事柄にかかる「危険risque」のことである。すなわち、ある事象に対してそれを妨げ、「侵害するnuise」可能性があると考えられるものである。脅威とは従って、リスクにとどまる。というのも脅威はあくまで「可能性possible」であるからである。

「自由la liberté」「独立indépendance」あるいは「自律autonomie」であると定義し得る。独立が個人の「意志volonté」に従って行動する能力を意味するのに対し、自律は「個人の規範propre loi」に従う能力を指す 。ここで扱われる「自由」は心理学的な意味合い(自由意志libre-arbitre)であるというよりは「政治的自由la liberté politique」である。というのもこ今回のテーマは人間間の関係についての検討に立脚するものであるからである。

従って問いはパラドキシカルである。ここでは、われわれが相互に関わりあっていると思っている自由と平等の間にある相互の排除可能性について考察することが求められるのだから。しかし実際の所、自由と平等はなぜ相互に関わりあっているように思われるのだろうか。なぜわれわれは自由と平等を同時に考察しなければならないのだろうか。条件の平等が自由を侵害すると考えることは可能であろう。しかしその一方で、生活の質において不平等である人間にとっての自由をどのようにして「形式的で実質を伴わない自由」、「権利の自由」と両立する、別箇のものとして考えることができるだろうか。それでは不平等は自由を侵害しないのだろうか。あるいは自由は法の下の平等の外で可能となるのであろうか。

→構成は[序論・本論・結論]であり、本論は三段論法に沿って展開される。序論では前編で見たように、先に語の定義と用法、そしてどのような問題が主題から惹起するかを明示する。 すなわち、自分がどのような前提に基づいて、どのような議論を行うかを予め提示することが序論の役割である。フランスにおけるあらゆる小論文dissértationにおいてこの形式は厳密に守られなければならない前提である。

 

平等は自由を侵害する

A.というのも平等は隷属へと向かう情熱であるからである

『アメリカの民主政治』においてトクヴィルは自身が「平等への情熱passion de l'égalité」とよぶものの中に、民主主義のあり得る欠陥を見る。すなわち、民主主義は画一化、多数派による支配、穏やかな専制への退化に向かいうる、というものである。「平等の堕落した追求が人間の心の中に見受けられる。それは強者にも自分たちと同等のレヴェルを要求したいと弱者たちに思わせ、あるいは人間を、自由の中の不平等に隷属したうえでの平等を好むように仕向けるものである」。言い換えれば、平等は、民主的な個人が平等と安寧という2つの支配的な感情に突き動かされる場合において、自由を侵害するのである。民主社会において、法による政治的支配によって条件の平等の拡大を請け負うのは国家である。国家はそのようにして、個人の特権を退ける。そして、自由よりも平等を好む個人の信託を得て、彼らの社会的生存を囲い込む規則を絶え間なく広めるのである。

ナショナリズムの機運が吹き荒れ、民主制の機運が高まる19世紀前半の欧米において、トクヴィルはいち早く社会を実証的に分析し、そこに潜む問題を抉り出した思想家の一人である。 彼によれば、政治の民主化に伴い少数のエリートから一般大衆に政治の担い手が移行し、それによっていっときの感情が政治を左右しやすくなり、あるいは多数者の意見が常に少数者の意見を封じ込めるようになる。いわゆる「多数者による専制」である。

諸国における革命を経て生まれた平等への並外れた情熱は、平等の特権化につながる。時にはそれを越えた不平等(多数派・国家への隷属)、そしてそうした権力による自由の剥奪(多数派・国家による個人の特権の剥奪)を許容してしまうことになる。トクヴィルが予言した民主主義のこうした危険性は――その国家の成り立ちからして自由をアプリオリなものとして享受することができた、トクヴィルの時代におけるアメリカとは反対に――平等を求めるあまり自由を制限しようとする大衆、それを煽動する政治屋が台頭するアメリカ社会の現状を見るまでもなく明らかであろう。

 

B.というのも平等は強者を支配するための弱者による発明だからである。

 しかし、もし平等が自由を侵害するのであれば、それはわれわれが自然状態において不平等である限りにおいてではないだろうか。言い換えれば、法はわれわれの間に平等平等を打ち立てることによって、われわれの自由を拘束するのである。そのようにして自由と平等は矛盾するのである。プラトンの『ゴルギアス』においてカリクレスは、自由を、自らの感情と欲望を満足させる能力と定義する。諸々の法は、われわれの自由意志と対立する場合において、拘束としての側面をよく表すのである。では、なぜ法によって打ち据えられた平等を望むのか。カリクレスは、諸々の法は、不平等を不正のものとして告発すべく弱者が発明したものであり、平等の観念を助長することで、法によって強者を打ち倒すべく築きあげられたものだと言う。

 →『ゴルギアス』においてカリクレスは次のように主張する。すなわち、自然(ピュシス)においては弱肉強食こそが正義であり、強いものに虐げられる弱いものこそが不正である。ところが社会(ノモス)においては強いものが弱いものを虐げることが不正だとされている。このような事態がなぜ生じるか、なぜなら平等が善であるという観念は、弱者が強者を支配すべく作られたものであるからであるとカリクレスは主張するのである。

そうであるなら、「平等」とは捏造された不正のものであり、本来的にある自由から人を疎外するものであると考えられる。ということは平等ではない状態、すなわち不平等であることが自由の条件となるのであろうか、と議論が進展する。

 しかし、それでは自由は不平等によって保障されたものであるのだろうか。自由に生きるためには、不平等でなければならないのだろうか。

 

不平等は自由を脅かす 

A.というのも実質的平等なき自由は有名無実な自由でしかないからである

マルクスは『1857-1858年草稿』*2において、ブルジョア的民主主義、および人間のもつ諸々の権利というイデオロギーの中核にある[自由・平等]という方程式は商品と貨幣の循環の、美化された象徴であるとし、これこそがこうした民主主義の実質的な基礎であると定義づけている。普遍的な人権とみなされている平等と自由、その間にある相互性は、実際には市場における個人、すなわちこの普遍性を支える匿名的な個人を定義付けているのである。ブルジョアイデオロギーが人間の本質として付与するものはこの身分である(実際に、1789年人権宣言は第二条において、人間の譲渡不可能な最初の所有物として、自由と所有の権利を付与している)。しかし、資本に隷属させられ、自らを商品として売り渡すことを強いられた労働者の自由意志とはどこにあるのか。マルクス曰く、自由と平等は実際には搾取を隠蔽するための言葉である。というのも、現実に資本主義に自らを売り渡さなければならない労働者にとって、自由に生きる権利なんてものが何の役に立つのか。誰もが資本家になる権利を有しているとして、資本家になれない人にとってその権利に何の意味があるのか。

→実質的な自由がなければ、自由という謳い文句はかえって害にすらなりうるという主張がなされる。「支配しているのは「自由、平等、所有そし てベンサム(Freiheit, Gleiheit, Eigentum und Bentham)」だけである」という『資本論』の言葉に代表される、ある種マルクス主義の根底にある民主主義批判がここでは援用される。国王による圧政とは異なり、資本家による搾取は「平等な」個人同士による市場経済を前提としているが、実際には労働者は自由でもなければ平等でもなく、そこに至る手段から疎外されている。しかしながらその構造は「自由・平等」という理想的な観念によって丁寧に隠蔽されているのである。この例示からは、実質的な不平等が自由や平等の観念を空虚なものにしていることがわかる。

 

B.というのも平等なき自由は無力だからである

現実の不平等によって無力化された理念的な自由になんの価値があるのか。これはマルキ・ド・サドが『フランス人よ、あとひと踏ん張りだ、共和国民となるためにFrançais, encore un effort pour être républicain』において考察している問いである。そこにおいて彼は、「窃盗は貧富を平等にする効用をもっているのに、それはその目的が平等を実現する政府においても大きな悪であるのであろうか」と問い、民主的な政府が私有財産の侵害を罰してはならないことの必要性を提示する。サドは人権宣言の不条理を指摘する。なぜなら人権宣言は所有を権利であり保護されるべき自由であるとするが、この保護を活用できるのは金持ちだけであるのである。というのも貧乏人は保護されるべきなにも持たないからである。現実の不平等によって自由は「見せかけの自由une liberté illusoire」となるが、それはサドが窃盗が許容されないのかと問うことで提示した、民主制の矛盾に立脚している。

→「財産、それは窃盗であるla propriété, c'est le vol」というプルードンの言葉はあまりにも有名である。私有財産という制度が存在する以上、そうした条件の実質的(数学的、計量的)な平等を実現するためには、各人の財産を平等に分配する必要があるだろう、というのは各種社会主義の主張するところであった。ところが現実に財産の平等を実現する制度がないのに共和国は平等を謳う、それどころかその手段である窃盗を罰しさえする、これは国家の大いなる矛盾ではなかろうか、とサドは言う。不平等であることは自由をも不可能にする。というのは政府が国民に付与する自由は財産を持つものにしか行使できないからである。故に不平等もまた自由を侵害するといえる。

しかし、もし条件の不平等が自由を侵食するのであれば、自由は法の下の平等の外で可能となるのではないだろうか。

 

 平等は自由を条件付ける

A.というのも自由は独立していることではないからである

実際には、不平等の中に自由はない。これはルソーが『山からの手紙』において「独立l'indépendance」「自由la liberté」を区別する際に提示したことである。「各々が好きな様に振る舞えば、しばしば他人の気分を害し、それは自由な状態とは言えない。他人の意志に従うよりも、各人の意のままに行動することに自由は無いのである。したがって、自由は他人の意志を自分たちの意志に従わせないことに存するのである」。言い方を変えれば、自由でいることは望むことをすることではなく、それを前にしてわれわれがみな平等であるような法に従うことであるのである。

→人間社会において各人が好きな様に生きることは、他者の自由を侵害することなしに不可能である(後に続くパッセージにあるように、ルソーにおいてそれは所有の観念の出現によるものである)。故に自然的自由とは別に、社会において自由と平等を実現するためにはどのようにすればよいか、各人が自由を拘束されるところの社会の正当性はいかようにして担保されるか、というのがルソーの命題であった。そこでルソーは社会契約を自由の産物と結論付ける。確かに社会契約は各々に固有の自由である特殊意志を制限し得るが、社会契約を結び、一般意志に従うこと自体は少なくとも契約者全員の信託によるものであり、その信託は個人の自由意志に基づいてなされた判断である。しかるに、社会契約によってわれわれは、お互いの自由を制限することで、最低限の自由と平等を全員に付与することができる、といえる。

 

B.というのも法のみが自由を可能にするからである

結果的に、法を可能にするものは法と、それを前にした万人の平等なのである。ルソーが言うには、自然状態――われわれの関係が、そこにおいては諸々の法に支配されないような架空の状態である――において、人間は平等に自由であるが、それは万人が「自然法la loi naturelle」に従っているからである。自然状態の終焉を告げるのは所有という観念の出来であるが、それというのも所有の観念が不平等(より強いものが多くを所有する)と暴力を生み出すからである。したがって人間間に「平等」なるものが改めて導入される必要が生じるのであるが、それこそがまさに、諸々の法を創設する社会契約の機能なのである。

 

結論

結局、自由を脅かすどころか、平等は自由を可能にする一つの条件であると言えるのである。自由が現実の不平等によって脅かされているように思われるのであれば、このように言うことができるだろう。形式的なものであっても、平等なき自由は不可能であると。

 

 

 

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当然ながら、この模範解答に対する批判・反論は多く考えられるだろう。例えばルソーの社会契約論のみでは、とりわけ現代社会における「自由」と「平等」の競合について仔細に結論付けることは困難である。しかしながら本論考を分析する上で重要であるのは結論ではない。むしろ、どのように論を組み立て、論証するかが重要である。

本論において一人称はまず見られない(いくつかの条件法は見られるものの、それらの使用は議論の上で不用意な明言を避けるべき状況にある項目に限られており、根拠に自信がないが故に使用されているわけではない)。各パッセージでは必ず思想家の引用がなされ、論が独断的なものにならないようになっている。そのうえで、新たに生じた問いを受けて論が発展する構造がとられており、結論に至る論証プロセスに飛躍がない。したがって、決して本論は自説から出発していないのである。

これとは正反対に、前編で引用した読書感想文のルールは基本的に「自論から出発すること」を求めている。小学生の読書感想文を例に挙げるのは気が引ける部分もあるが、実際に大学生の即レポを見ても構造は変わらない。その証左として次の即レポを引用する。学生運動に関する講義に対する即レポである*3

SEALDsによる学生運動が盛り上がった時、マスコミの報道は、まず、SEALDsに対して疑いの目を持つような視点からであることに違和感があった。現在日本で行われているデモは、大体が参加していない人に迷惑をかけるものではないと、私は感じており、自分の意見を主張する人に対して、なぜ主張するのかとか、その主張は本気なのかと他人がとやかく言うのはナンセンスだと感じる。なぜなら、自分の意見を持ち、発言することは、それぞれの権利だと考えるからである。私は自分が持つ意見について、体現する場所として社会運動を選んだことはない。しかし、多くの人が自由に参加できる社会の場について、ネガティブな評価ばかり下されるべきではないと考える。

文章がすべて書き手の主観から出発している。結果として論に客観的な根拠が無い。感想としては問題ないのかもしれないが、小論文としては不合格であろう。

こうした文章作成のプロセスは当然ながら大学生の論文執筆にも影響するだろう。それはそれで問題だが、今ひとつ考えられることは、こうした小論文の作成プロセスは、実際の議論における思考プロセスにも多分に影響を与えているのではないかということである。すなわち、まず自分の主観、あるいは直感から出発し、それを補強するために例示や論拠を探すというプロセスが習慣となる危険性があるように思える。この手法は協力である。なぜなら「私は考える」という主張はいかなる論をもってしても覆せないからである。「私」が「考える」以上、それを反証することはできない。それは客観性とは異なる次元にあるからである*4

一方で、前編の冒頭で触れた画一性であるが、フランスではこうした論証プロセスがあまりに一般的に過ぎ、議論が画一的になりがちであるという懸念が存在するようだ。また、バカロレアの合格点は10点程度なので、適切な引用と客観的な議論を備えた文章を作成できる受験生はそういないだろう。例えば知識が不足していれば適切な引用ができず、主観的な議論に陥っている可能性もある。論述問題の難しいところはある程度の知識が前提となっているところであろう。

結論としては、双方の思考プロセスを兼ね備えていることが豊かな議論には必要である。少なくとも日本の教育は片方に偏っているため、個人レベルではディセルタシオンなどの思考プロセスに触れるなどして、客観的な議論を行えるよう対策する必要がある。状況に応じて双方の思考プロセスを選択できることが望ましいのではないだろうか。

*1:「自由、平等、博愛Liberté, Égalité, Fraternité」

*2:『経済学批判要綱Grundrisse der Kritik der politischen Ökonomie』を指す。

*3:あくまで即レポであるのであまりとやかく言うべきではないかもしれないが、少なくとも見た限り大多数の文章がこのような構成であった。この事態には義務教育時代から連綿と続く「感想文」の教育が影響しているように思えてならない

*4:個人的には、「なんとかの論負け知らず」はこの事態を指すと思っている

バカロレアに見る小論文作成術・前編

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この画像は衆議院議員日本共産党准中央委員である堀内照文氏が先日ツイッターに投稿したものである。堀内氏は子どもの文章が「画一的」なものとなることを案じていたようだが、問題の所在は文章の画一性だけにあるのだろうか。というより、画一性を問題視するのであれば、子どもの文章が画一的であることのなにが問題であるのか、画一的であるというのはどの部分においてそうであることを指すのかを今ひとつ問う必要があるだろう。

確かにテンプレートが同一のものであれば、文章のスタイルも似たようなものになる。ただし、その文章が立脚する個人の考えや体験がユニークなものであれば文章全体が画一的なものになりはしないのではないだろうか*1。文体や構成が画一的であるというのは学生の感想文が似たり寄ったりになることの本質的な原因ではないように思う。

もちろん読書感想文はそれ自体として一つのスタイルではある。しかしながら、そのスタイルは小論文やレポートといった論証を伴う文章において求められるものではないだろう。むしろ、高等教育において求められる客観的な論説や分析、書評においてはむしろ画一的な文章構成が求められるのである。このことは「レポート・論文の書き方入門」と題された本を一冊でも読めば明らかなことである。

したがって、この文章構成法がもたらす、個々人の思考のプロセスに対する影響が問題であるように感じる。具体的には、しばしば大学生が書くレポートや小論文が論証の体をなしていない事態がそれに当てはまる*2。後にこの事態に関しては例を挙げるが、大学教育で読書感想文のスタイルで書かれたレポートが濫立するのは、義務教育中に論述的な文章を書き、その構成や表現、分析について添削を受ける機会がほとんど無いことに理由があると考えられる。

 

では大学一年生や高校生が説得的な文章作成術を身につけるためにはなにをすればよいだろうか。先の「入門」も有用だろうが、実際に説得的な小論文を読み、その文章に関する分析を読み、それを真似て小論文を書いてみて添削を受けるというのが近道であるように思う。とはいえそのような実践的な本はあまり見かけない。あったとしても日本語のエッセイがお題であったり、あまり興味深いテーマを取り扱うものは少ない。

本ブログでも以前書いた覚えがあるが、フランスの大学入学資格試験であるバカロレアの受験対策本が、小論文の書き方、問題の分析の仕方の基礎を学ぶにあたって効果的である。

フランスの小論文(dissértation)は構成や文の形、作成のルールが厳密に決まっていて、受験者はその型を守ることがまずもって義務付けられる。逆に言えば序文・本文・結論を備えた三段論法に基づく論証を、適切な表現を用いた文章を書くことができれば、それだけで高評価につながるのである。例えばそのルールには以下の様なものがある。

  • 一人称は使わない
  • 「〜と思う」「〜だと感じる」といった表現を用いない
  • 「であろう」といった曖昧な表現を用いない
  • 題材となる文章を曲解しない
  • 題材となる文章を長々と引用しない
  • 決められた文章の量を守る
  • 常に客観的である
  • キーワードは定義を明確にする
  • etc

どれも論説文を作成するにあたって基本的なことばかりである。しかしバカロレアにおいてはすべての試験が論述式であるので、こういったルールを厳密に遵守しなければ評価対象にすらならない。従ってバカロレアで好成績をおさめるためには文章作成能力がまず要件となり、受験生はそのスキルを身につける必要があるのである。

フランスの参考書メーカーであるannabacなどは各年のバカロレアのテーマと模範解答、文章作成にあたってのポイントをホームページに掲載している。しかしながら当然それらはフランス語で書かれているため、日本語で読むことができない。

今回はその模範解答を引用・翻訳することで*3フランスにおける小論文作成の手順を概観することにしたい。筆者による解説・コメントは本文との混同を避けるため脚注またはインテンドしてある。

今回は「道徳la morale」に分類されるテーマを選んだため、「個人」や「主体」、「自由意志」といった哲学的概念それ自体に対する考察は少ないが、当然ながらこういった概念を問い、分析するテーマも出題される。

模範解答の本文を見る前にまずは論述にあたって挙げられているポイントを訳出する。

 

2011年度バカロレア哲学課題

テーマ:「自由は平等によって脅かされるか La liberté est-elle menacée par l'égalité ? / Is liberty threatend by Equality ?*4

 

 

 [論述のポイント]

 

1.主題の用語を定義する

→まずお題に使われている語を定義することからはじめる。このテーマ(自由は平等によって脅かされるか)においては「自由とは何か」「平等とは何か」「脅かすとはどのような事態を言うのか」がまず明示される必要がある。議論にあたっての前提を明確にし、読み手と共有しなければならないからである。ちなみに、ギリシャ・ラテン由来の語彙を多く持つフランス語においてはエティモロジー(語源)を引く場合も多々ある。

 

  •  平等(Égalité)

「平等」とはまずもって数学用語であり、等価関係、あるいは二項の置換を意味するものである。ここにおいて「平等l'égalité「同一性l'identité」は区別され得る。同等の二項は必ずしも相似ではないからである。

「平等」は同様に、各個人が同じ仕方によって見られるべきであるというところの「政治的原則principe politIque」を意味する。

「平等」「衡平(公平)l'equité」と区別される。というのも平等が第一に「各人に同じものを」であるのに大して、衡平は「それぞれに、各人の利益、必要性に応じたものを」であると言える。

法の下の平等l'égalite des droits」、すなわち万人の平等な尊厳という観念に基づく法の下の万人の平等と、「条件の平等l'égalite des conditions、すなわち手段の平等や、生活環境の平等を区別することができる。これはマルクスによる「形式的平等égalité formelle」「実質的平等égalité réelle」を思い起こさせる。

 

  •  脅かす(Manacer)

「脅威menace」とは、ある事柄にかかる「リスクrisque」のことである。すなわち、ある事象に対してそれを妨げ、侵害する可能性があると考えられるものである。脅威とは従って、常にリスクにとどまる。というのも脅威はあくまで可能性であるからである。

 

  • 自由(Liberté)

「自由」「独立indépendance」あるいは「自律autonomie」であると定義し得る。独立が各人の持つ「意志volonté」にしたがって行動する能力を意味するのに対し、自律は「個人の規範propre loi」を遵守する能力を指す 。ここで扱われる「自由」は心理学的な意味合い(いわゆる自由意志libre-arbitre)であるというよりは「政治的自由la liberté politique」である。というのも今回のテーマは、人間間の関係についての検討に立脚するものであるからである。

 →当然、フランス共和国のスローガンである「自由、平等、博愛」が念頭に置かれている。注目すべきはそうした国家の根幹にある標語が批判的考察の対象として国家試験に出題されていることである。そしてこの試験が社会科の試験ではなく、哲学の試験であるにもかかわらず、このテーマにおいては「自由」「平等」という観念が政治的、社会的枠組みの中で論じられることを求められていることも目につく。「哲学philosophie」という分野をフランスがどのように定義しているかがよく現れている。

 

2.問題点(problématique)を探し出し、構成を練り上げる

→語の定義が終わったところで、どのような問題点が考えられるかを探し出し列挙する。そのうえで本文を書く前に構成を練り上げる。

 

  • 問題点

・ここでの問題点は、自由と平等の乖離に存する。というのも一般には*5、これら二つの観念は結びついているように思われているからである。この二つに関わるものとして、1789年人権宣言の 第一条は「人間は権利において自由かつ平等に生まれ生存するLes hommes naissent et demeurent libres et égaux en droits」と明言している。しかし、そうであるなら平等が自由を妨げるという事態をどのように考えればよいのだろうか。

・問題となる点はこのテーマそのものにある。というのも、そもそも「自由と平等が比較可能なものであるかどうか」あるいは「平等は自由を損なわせ得るのだろうか」という点が問題となるであろう。というのもなぜ、自由と平等を同時に考察しなければならないのであろうか。条件の平等は各個人の自由を妨げはしないのだろうか。どのようにして、生活の質においてそもそも不平等である人間の自由を「形式的で実質を伴わない自由」、「権利の自由」とは別箇のものとして考えることができるだろうか。そうであれば、自由は法によって据えられた平等の外において可能となるのだろうか。

 →いわゆる「機会の平等」「結果の平等」である。われわれは日常的に「自由で平等な」というようなフレーズを用いて自由と平等を並列で比較可能なものとして取り扱うが、実際にはある一定の場合において平等の実現は個人の自由を束縛する。さきほど平等の性質を二つに分けたが、自由と競合し、自由を拘束し得るのは「条件の平等」、つまり「結果の平等」である。

しかし、法治国家において「結果の平等」は法によって保障され、実現される。そうした平等によって自由が制限されるのであれば、自由は法の外にあるのでないか、あるいは逆に不平等が自由を実現するのではないか、という問いが生まれるのである。

「形式的自由la liberté formelle」という表現ははおそらく「積極的自由」「消極的自由」に対応するものであろう。すなわち、「消極的自由」は外部から干渉されない自由であり、「積極的自由」は自己の意思を体現する能力の自由であるが、積極的自由は確かに形式的に個人の自由を認めている一方で、個人の能力任せであるという点で自由を発現できない人間が生まれ、結果的に全員の自由をもたらすことはないというものである。したがって、ここで提示された問いは以下のように解するのが適当ではないだろうか。すなわち、結果の平等は確かに個人の自由を制限するかもしれないが、逆に各人がその能力を自由に行使できるということは、一方で各人の自由が干渉することに繋がるため、それぞれが両立することは不可能ではないか、というものである。

 

  • 構成

・最初に、次の仮説について取り扱うことができるだろう。つまり「平等は個人の希望を拘束する限りにおいて、確かに自由を脅かすものである」というものである。

・次に、不平等もまた自由、とりわけ理念的な自由を脅かすものであるというところへと移行する。最終的には、自由を脅かさない平等が自由の条件となることを示すところへと行き着くことになる。

 

 

(後編へ続く)

*1:個人的には、自我が発達しておらずユニークな体験も少ない、加えてそうした体験や考えを発現する表現方法も知らない子供の時分に感想文を書かせれば、どうしても内容は似たり寄ったりになるように思う。

*2:例えば以前僕が大学院でTAをしていたときに、自らの主観・体験から出発して文章を構成する学生が多いということを感じた。その時は学部一年生のレポートを見る機会があったのだが、発想や着眼点はともかくとして、その文章の「感想文」ぶりには驚いた。

*3:訳出にあたって、読みやすさを重視すべく意訳を多く用いている。中には明らかな誤訳もあるだろうがご容赦されたい。

*4:全文はここで閲覧可能(フランス語)

www.annabac.com

*5:ここで「一般には」と訳した原文はa prioriである。しばしば小論文に見られるフレーズであるが、哲学的な意味合いでのアプリオリよりも軽い意味合いであり、「一般には」「普通は」といったニュアンスである。